目前分類:二葉百合子 (2)

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 【台灣の厝角草(そかくそう:角の方に置かれる草即ち「雑草」の意)】
 〔別名:母子草(ははこぐさ)、御形(ごぎょう)、鼠麴草(そきくそう)〕

 

 「雑草のうた」は、日本の歌手で浪曲師の二葉百合子(ふたば ゆりこ、1931年6月23日 - )が、1994年04月06日 に発表したアルバム『雑草の歌』の第1曲目に収録しているアルバムの表題曲です。(曲名の方は漢字の「歌」ではなくひらがなの「うた」)

 

 この楽曲が発表される18年前の1976年(昭和51年)に日本の歌手美空ひばり〔みそら ひばり、1937年5月29日 - 1989年6月24日〕が、自ら作詞して遠藤実が曲を付けた同名の
「雑草の歌」が発表されていて、歌題も詞想も似通っていますが別の楽曲です。

 

 美空ひばり版では、自らを雑草に擬えて、自分は踏みつけられても生き抜いて雑草のように強い女になったのだと詠じていますが、二葉百合子版では雑草の忍耐心と謙虚さと強い生命力とを詠じたもので、暗に自分もそうありたいとの願望が籠められた歌詞になっています。

 

 作詞は荒木とよひさ、作曲は岡千秋、世上にあまり知られてはいませんが、3歳で浪曲師として初舞台に立ってから、浪曲師として歌手として或いは若手演歌師の歌唱指導者として活躍した二葉百合子の芸能生活60周年を記念する一曲ですが、今回は作曲家の岡千秋の演唱でご紹介します。

 

 
 雑草のうた
 雜草之歌

              作詞:荒木とよひさ 作曲:岡千秋 演唱:二葉百合子

 

下駄(あし)で踏まれりゃ 耐えなさい
泥をかぶれば 耐えなさい
この世に生まれた 雑草は 雑草は
弱音吐かずに 背伸びして
空を見上げて 生きている

如果用木屐被踏了 請忍耐
如果澆淋泥 請忍耐
人世生的 雜草 雜草
不說出弱音 蹺起腳
仰視天空 活著

 

桜(はな)に生まれた 人もいる
母を知らない 人もいる
この世に名もない 雑草は 雑草は
人を嫉(ねた)まず 羨(うらや)まず
大地(つち)に根っ子で 生きている

成為櫻花的花出生的 人也在
不知道母親的 人也在
人世名也沒有的 雜草 雜草
不忌妒人 不羨慕人
到大地紮下根 活著

 

雨にも敗けずに くいしばり
風にも敗けずに くいしばり
この世を見捨てず 雑草は 雑草は
冬に枯れても また春に
生命いっこで 生きている

也不輸雨 咬緊牙齒
也不輸風 咬緊牙齒
不棄而不顧人世 雜草 雜草
冬天枯萎 又也向春天
由於一個生命 活著

 

 

 

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 「岸壁の母(がんぺきのはは)」は、昭和29年(1954年)9月に日本の歌手菊池章子(きくち あきこ、1924年1月28日 - 2002年4月7日)の演唱で発表された楽曲です。
 この楽曲は当時レコード売上100万枚を超える大ヒットとなりましたが、その後、二葉百合子(ふたば ゆりこ、1931年6月23日 - )が浪曲調にアレンジして台詞も加えたカバー版が昭和46年(1971年)に発表されてその翌年にはシングルカットされました。
 二葉百合子版の方は250万枚を超える空前の大ヒットとなり、現在はこちらの方が一般によく知られています。

 

 作詞は藤田まさと、作曲は平川浪竜(ひらかわ・なみりゅう)が担当しています。
 歌詞は、終戦直後シベリアに抑留された息子端野新二の帰りを待つ端野いせ(1899.9.15 – 1981.7.1)の実話を元に作られています。
 石川県出身の端野いせは、船員の夫に随って北海道の函館に昭和5年まで住んでいましたが、夫と娘を相次いで失くしたことから、新二を養子に迎えて昭和6年に上京して終戦後も東京都大森に住んでいました。
 しかしながら、ソ連からの引き揚げ船が来る港は京都府北部の日本海側にある舞鶴港であったため、新二の生存と復員を信じる端野いせは昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に、その復員名簿に新二の名が無いにもかかわらず東京から遠路足を運んで舞鶴港の岸壁に立っていました。

 

 作詞した藤田まさとは、この端野いせが引き揚げ船の来る都度舞鶴の岸壁に立つ事情を聞いて、母親の子を思う愛への感動と戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げたといわれています。
 その歌詞を読んだ平川浪竜は、これが単なるお涙頂戴式の母ものでないと確信し、徹夜で作曲して翌日テイチクレコードに持参しました。
 さっそく平川は視聴室でピアノを演奏し、テイチクレコード会社の重役と文芸部長、作詞した藤田まさとの3人に聴いてもらいました。
 ところが歌い終わっても3人から何も反応がありませんでした。実はその時3人は感動に涙していたのであります。

 

 歌手にはテイチクレコード専属の菊池章子が選ばれて早速レコーディングが始まりましたが、演奏が始まると菊池は泣き出してしまいました。
 その後放送や舞台で披露する際も、菊池は常に涙なくして歌うことはありませんでした。
 菊池曰く「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、『もしやもしやにひかされて』という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら涙がこぼれますよ」と語っています。

 

 昭和29年9月発売と同時に、この楽曲は日本中を感動の渦に巻き込みました。
 菊池はレコードが発売されたとき、「婦人倶楽部」の記者に端野いせの住所を探し出してもらい、「私のレコードを差し上げたい」と手紙を送りました。しかし、端野の返事は「もらっても、家にはそれをかけるプレーヤーもないので、息子の新二が帰ってきたら買うからそれまで預かって欲しい」というものでありました。
 それを聞いた菊池はみずから小型プレーヤーを購入して端野に寄贈しました。

 

 子を思う母心を詠じた古今の絶唱、 菊池章子の原唱でご紹介します。

 

 

 岸壁の母          
 佇立在海岸壁之母


                    作詞:藤田まさと 作曲:平川浪龍 演唱:菊池章子
 
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

母親來了 今天也來了
這個陡岸邊 今天也來到
無法如願 雖明知但
也許 也許 也許 也許
心懷著一絲希望

 

呼んでください おがみます
ああ おっ母さん よく来たと
海山千里と 云うけれど
なんで遠かろ なんで遠かろ
母と子に

請呼喊我一聲 懇求你
「啊! 媽媽 特地來了」
海與山相隔千里 話雖如此但
爲何 如此遙遠?  爲何 如此遙遠?
母子之間

 

悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている
流れる雲より 風よりも
つらいさだめの つらいさだめの
杖ひとつ 
 
悲愴心願十年 這個祈求
只有蒼天明白知道
儘管雲朵飄過 儘管寒風吹過 更
艱辛的命運 艱辛的命運  
只有枴杖可依靠

 

 


岸壁の母/菊池章子(オリジナルシンガー)/復員船実景/舞鶴港

 

 

 おまけ 二葉百合子版 ▼

岸壁の母 - 二葉百合子

 

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