今回ご紹介する「遠別離(えんべつり)」は、台灣の中正学校(1975年「新華学校」に校名変更)の卒業生により作られた畢業歌(ひつぎょうか:「卒業歌」の意)です。

 

 作詞者は不明ですが、詞を書いたメモ書きに見える日付から校名がまだ中正学校であった1971年1月に作られたようです。
 この詞に、校名が新華学校に変更された後の2011年頃、市井の作曲家李明方が補詞し曲を付けてこの楽曲は完成しました。

 

 そして、この学校の卒業生有志が一堂に会して動画を作成しました。
 かなりマイナーな楽曲なので、2016年8月9日に動画を公開してから現在までの視聴回数は800回位に過ぎず、その内50回くらいは伊賀山人の視聴によるものです。

 

 動画の中で、シンセサイザーやギターなどの楽器を演奏している人が作曲者の李明方で、この人が全ての楽器を演奏してオーバーダビングしています。
 主唱は、洪惠娟と洪洲ですが、この二人の詳細については不明です。

 

 李明方以外は全員素人による演唱ですが、音程やリズムに拘るよりも純粋に詞や音を楽しむという音楽の原点を感じさせる心温まる卒業歌です。

 

 

 遠別離     遠別離(えんべつり)

 

歌聲凄 琴聲低   歌声(かせい)は凄(せい)として 琴声(きんせい)は低く
無言訴 心迹…   無言にして訴(うった)うる 心の迹(あと)を…
數年聚 深相契   数年(すうねん)聚(つど)ひて 相い契(ちぎ)ること深きも
一朝遠別離…    一朝(いっちょう) 遠く別離せんとす…
遠別離 莫唏噓   遠き別離にありて 唏嘘(ききょ)すること莫(な)かれ
身雖別 心相依   身は別(わか)ると雖(いへど)も 心は相(あ)ひ依(よ)る

歌声は悲しく 琴の音は低く

無言で語っている 心の中を…

数年間集いて 深く契を交わしたが

時来たりて遠く別離の日となった…

遠くへの別離にあたって すすり泣くのはやめよう

身は別れると雖も 心は互いに寄り添っているのだから

 

遠別離 莫唏噓   遠き別離にありて 唏嘘(ききょ)すること莫(な)かれ
身雖別 心相依   身は別(わか)ると雖(いへど)も 心は相(あ)ひ依(よ)る

遠くへの別離にあたって すすり泣くのはやめよう

身は別れると雖も 心は互いに寄り添っているのだから

 

(以上の全詞2回繰り返し)

 

中正 友情深重    中正(ちゅうせい)の 友情は深くして重く
新華 熱情融融    新華(しんくゎ)の 熱情は融融(ゆうゆう)たり
今朝 同聚一堂    今朝(こんてう) 同(とも)に一堂に聚(つど)ひて
但願 今後餘年    但だ願ふ 今後の余年(よねん)に
能常來 相見歡聚  能(よ)く常に來たりて 相ひ見(まみ)へ歓(よろこ)び聚(つど)ふこと
眞到永遠       真に永遠に到(いた)らむことを

中正学校の 友情は深くて重く

新華学校の 熱情は和やかで楽しい

今日 共に一堂に集いて

ただ願うのは 今後の余生において

常に喜び集いて 再会できることが

真に永遠に続くことだけである

 

 

 


Yuan bia lee 遠別離

 

 追記:

 学校名の「中正」とは、蒋介石の実名「蒋中正」から取ったもので、戦後の戒厳令時代に校名に「中正」を含む学校が30校くらい乱立しました。

 同名校が多くて甚だ紛らわしかったのですが、戒厳令解除後に学校の理念や所在地を表わす校名への変更が相次ぎ、「中正」を冠する学校は激減しています。

 

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 日本の唱歌「遠別離」は、1901年(明治34年)3月に東京音楽学校が旧制中学校の生徒用に編集した音楽の教科書『中学唱歌』に収録されている楽曲です。

 

 この当時の中学校では音楽は必修科目ではなく、随意科目として12歳で入学してからの中学5年間(飛び級で4年で卒業する者もあった。)の内、最初の3年間だけ選択できるようにしているところが多かったようです。

 

 「遠別離」の作詞・作曲者の氏名については公表されていません。
 当時は、国の音楽教育の建前から教育用の唱歌については作詞・作曲者から著作権を取得する時に「国による訂正を含む権利取得」とすることが一般的で、よほど高名な音楽家の作品を除き、その他の製作者に対しては一時金を支払って著作権を買い上げることにより、爾後は個人の権利を認めなかったため、多くの作品が個人の著作とは見做されていません。
 しかしながら、近年の音楽史研究によると、この楽曲は当時の音楽学校教授であった国文学者の中村秋香(なかむら あきか:男)が作詞し、同じく教授であった杉浦千歌(すぎうら ちか:女) が作曲したと考えられています。

 

 歌詞は2節だけの短いもので、第1節で旅立つ友との別れの憂いを詠じ、第2節で友を励ます言葉を述べて結んでいます。

 

 文体は、当然ながら文語体です。
 今の日本人の感覚では、「こんな難しい文章を中学生が読めるのか?」と不思議に思われるかもしれませんが、明治から大東亜戦争終結に至るまでは、新聞も書籍もこの文体が標準であったのです。口語体で文章を書いたのは夏目漱石などごく限られた人だけです。

 

 そのような文語体であっても、新聞などでは使われている漢字の多くに振り仮名を付けてあったので、小学校卒業程度の学力があれば誰でも読みこなせるものでした。

 

 また、この詞の最後に見える「行きて勉(つと)めよ 國の爲 」との句は、中学生には大袈裟と感じられるかもしれませんが、時代背景が現在とは全く異なっていたことを理解しておく必要があります。

 

 この曲が出来た明治34年ごろは、10歳で尋常小学校(4年間)を卒業した者と高等小学校(2年間)に進んで12歳で卒業した者の内95%は家業を継ぐなり家を出て丁稚奉公に行くなりして就職しています。
 残りの5%は高等小学校卒業後中学校(5年間)或いは実業学校等に進学していますが、そこを卒業して高校以上に進むのは0.5%、つまり同世代の中の200人に1人だけだったのです。
 そのため、中学生になると社会のエリートとして一目置かれ、高校生にもなると川端康成の小説「伊豆の踊子」の主人公のように学者として尊敬される立場だったのであります。
 換言すれば、日本人の95%が小学校を卒業する12歳までに、残りの人々のほぼ全員が中学校卒業の17歳までには人生の進路を決める一大決心を迫られたのであります。

 

 また、国際情勢を顧みると、モスクワ公国以来の領土拡張主義に基づき、不凍港の領有を企図するロシアの南下政策により、支那や朝鮮のみならず、日本の領土も脅かされていた時代であり、この曲が出来た3年後には日露戦争が勃発しています。

 

 即ち、10代前半の未だ子供と言える年齢で、社会的にも経済的にも自立し、場合によっては国に報いる為に生命の危険をも覚悟せざるを得なかった時代なのであります。

 

 当然、見送る人の悲しみや送られる人の不安の大きさは、今の中学生とは全く比較になりません。

 

 明治の代に、国の期待を一身に受けて旅立つ旧制中学生に思いを寄せて、古今不朽の送別詞をご清聴ください。

 

 なお、最後の一句「・・勉(つと)めよ・・」を動画では「・・盡(つく)せよ・・」と歌っていますが、正調は前者の方です。

 

 

 遠別離  
                   中学唱歌明治34年
                   作詞・作曲:不詳  
一、
程遠からぬ 旅だにも
袂(たもと)分(わか)つは 憂きものを
千重(ちへ)の浪路(なみぢ)を 隔つべき
今日(けふ)の別(わかれ)を 如何にせん

旅程雖不遠
分袂多憂愁
況隔千重濤
今日別如何

 

二、
我(われ)も益荒男(ますらを)いたづらに
袖(そで)は濡らさじ さはいへど
いざ勇ましく 行(ゆ)けや君
行(ゆ)きて勉(つと)めよ 國の爲 

我亦大丈夫
徒然不濡袖
君逝勇敢逝

逝勉爲報國

 

 


16 遠別離

 

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【アメリカの楽譜集「歌のこだま」に収録されている「仰げば尊し」の原曲(右下部)】

 

 日本の唱歌「仰げば尊し」は、1884年(明治17年)3月29日付「小学唱歌集第三編」に記載して発表された文部省唱歌ですが、この楽曲の作者は永年不明でした。

 

 しかし、2011年1月に一橋大学名誉教授の桜井雅人が、旋律やフェルマータの位置が「仰げば尊し」と同一である「Song for the Close of School」(学校卒業の歌)という楽曲が、1871年に米国で出版された楽譜集「The Song Echo」(歌のこだま)に収録されていることを発見しました。
 この楽譜集は、基本的に初出の歌曲のみを載せていることと、これ以外の収録歌集が現在知られていないことから、この楽曲こそが原曲であると推測されています。
 この楽譜集の表紙の注釈には、「A Collection of Copyright Songs, Duets, Trios, and Sacred Pieces, Suitable for Public Schools, Juvenile Classes, Seminaries, and the Home Circle」(公立小中学校、少年クラス、神学校及び家庭のサークルに適するデュエット、トリオ及び聖歌の著作権のある楽曲集)と記載されています。
 同書では作詞者を「T.H.BROSNAN(T.H.ブロスナン)」、作曲者を「H. N. D.」であるとしています。
 作詞者のブロスナンは当時は学校の校長でその後保険業界で活躍したことが知られていますが、作曲者の「H.N.D.」については『歌のこだま』の編者ヘンリー・パーキンズ(Henry Southwick Perkins、1833-1914)とする仮説もありますが、確たる証拠は見つかっていません。

 

 この楽譜集を文部省音楽取調掛で二十歳になったばかりの伊澤修二(いさわ しゅうじ、1851年7月27日(嘉永4年6月29日) - 1917年(大正6年)5月3日) が入手して、日本語の歌詞を大槻文彦・里見義・加部厳夫の合議によって作り、『歌のこだま』発表の13年後の1884年(明治17年)に『小学唱歌集』第3編に収録して発表したのが「仰げば尊し」の始まりであると考えられています。
 なお、伊澤修二はその後も教育者兼文部官僚として活躍して、特に近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者として知られています。
 また、1894年(明治27年)の日清戦争後に日本が台灣を領有すると、伊澤修二は台灣へ渡り台灣總督府民政局學務部長心得に就任して、台灣で最初の小学校を設立するなど統治教育の先頭に立っています。
 現在の台灣の「仰げば尊し(靑靑校樹)」は、歌詞については戦後新たに作られたものですが、曲は伊澤修二が台灣赴任時に伝えたものと考えて間違いないでしょう。

 

 原曲の英語版の歌詞は、教室への思い出を詠ずるところは日本版と同じですが、友人との惜別の情をより明確にしていることと、恩師に関わることが一言もなく全編を通して神への畏敬の念を詠じているところに特徴があります。

 このことは、そもそも欧米には「恩師」という概念がないことを意味しています。

 日本や台湾では、教師は知識や技能を教えるだけではなく、高邁な人格を持って生徒を教導する人生の師即ち恩師として仰ぎ見られる存在が理想像とされてきました。

 これに対し、欧米では教師は知識や技能を取り扱うサービス業者に過ぎず、生活指導や道徳教育は親と聖職者の仕事とされています。

 欧米の教師は、日本で言えば自動車学校の教官やパソコン教室の指導員のようなものであって、生徒の人生観に影響を与えることなどはないようです。

 

 アメリカでは現在、この英語版の楽曲は忘れ去られており、キリスト教系の學校の卒業式でも歌われることはありません。
 例外的に、10人ほどのサークルの卒業式で、卒業生の一人が独唱している動画を見たことがありますが、聴衆は殆ど無関心でよそ見をしている状態でした。

 

 そもそもアメリカの卒業式では、合唱をする習慣がなく、もし歌うとしても国歌『星条旗』だけのようです。
 卒業生を見送る時には、合唱曲ではなく、スーザの『星条旗よ永遠なれ』やエルガーの『威風堂々』などの勇ましい行進曲で送り出すようで、日本や台灣のように涙にくれつつ別れを惜しむという感傷的な雰囲気ではないようです。

 

 卒業式とは別の卒業記念パーティーでは合唱もされますが、曲目は流行歌手のラブソングが殆どで純粋な卒業歌とは言えません。

 

 その他の国の卒業歌も調べてみましたが、アメリカと同様で、国歌を歌うところはあるものの卒業歌を歌う国は見当たりませんでした。
 そもそも、卒業式専用に作られた卒業歌そのものが存在しません。

 

 要するに、純粋な卒業歌を持つ国は、日本と台湾だけのようです。
 この古き良き伝統が継承されることを願いつつ、「仰げば尊し」3部作の最後にあたり原曲の英語版による演唱をご紹介します。

 

 

 Song for the Close of School
 学校卒業の歌
 學校畢業之歌
1
We part today to meet, perchance, Till God shall call us home;
And from this room we wander forth, Alone, alone to roam.
And friends we've known in childhood's days May live but in the past,
But in the realms of light and love May we all meet at last.

我らは今日別れ、まためぐり逢うのは、恐らくは神の家に召される時であろう。
そして、この教室から我らは歩み出て、一人で、只一人で流離うことになるだろう。
そして、幼な馴染みの友は、過去の思い出の中で生き続けるだろう。
しかし、光と愛の御国で、我々すべてが人生の最後のときには再会できるだろう。

今朝一別再相會 , 或許要到上帝召喚我們後 ;
從此教室我們漫遊人生 , 獨白漫遊。
童年時期的友們 , 也許活在過去的記憶裡 ,
僅在光和愛的領域中 , 願我們終究相會。

 
2
Farewell old room, within thy walls No more with joy we'll meet;
Nor voices join in morning song, Nor ev'ning hymn repeat.
But when in future years we dream Of scenes of love and truth,
Our fondest tho'ts will be of thee, The school-room of our youth.

ごきげんよう古き教室よ、汝の壁の内にありて、我らが楽しく集うことは二度とない。
朝の歌に声を揃えることも、夕べの賛美歌を繰り返すことももう二度とない。
しかし、幾年も後の未来においても、我らはこの愛と真実の場を夢見る。
我らの最も大切な思い出は、汝の中にある、我らが青春の日々を過ごした汝教室の中に。

告別了舊校舎 , 在校園裡 將不再有我們過往的喜樂 ;
無復晨歌合唱 , 亦無晩詠復誦。
但是多年後當我們神往 , 愛與真誠之境 ,
我們再美好的將是 , 校園教室内的青春年少。

 

3
Farewell to thee we loved so well, Farewell our schoolmates dear;
The tie is rent that linked our souls In happy union here.
Our hands are clasped, our hearts are full, And tears bedew each eye;
Ah, 'tis a time for fond regrets, When school-mates say "Good Bye."

ごきげんよう我らが心から愛した教室よ、ごきげんよう親愛なる学友たちよ。
我らの魂を、幸せな仲間としてここに繋いできた絆は引き裂かれる。
我らの手は固く握られ、心は満たされ、そして涙はそれぞれの目に溢れている。
ああ、今こそは惜別の時、いざ学友たちよ「さらば」と言おう。

告別了我們所摯愛的 , 告別了親愛的同學 ;
短暫的同窗之誼 , 快樂的將我們心靈在此連結。
我們緊握雙手 , 心中充滿喜樂 , 涙眼婆娑 ;
啊 ' 當同學們互道珍重時 , 是惜別的時刻說“再見”。

 

 

 

 

 


『Song for the close of school』A Cappella Original Arrangements by K.T

 

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