【2009年9月9日に全世界で発売された『ザ・ビートルズ BOX』(デジタルリマスターCD)】

 

 目次

考察の前提

1 序論

2 本論
 (1) 「Let it be」を語った人物

 (2) 「Let it be」の意味

3 結論

 

 

 考察の前提
 Let it beは、1970年4月に解散したビートルズの作品の内、ミキシングが終了して完成した時期を基準とすると最後の楽曲です。
 この曲は、ビートルズの解散を望まないポールマッカートニーがThe Long and Winding Road(長く曲がりくねった道)を歌ってジョンレノンに関係修復を呼びかけたものの、万策尽きて決裂が不可避であることを悟って作ったものです。
 作詩・作曲は、例によって「レノン・マッカートニー」と二人の連名になっていますが、実際はポールが一人で作ったものです。

筆者注:

 ジョンが高校生の時結成したアマチュアバンド「クオーリーメン」にポールが参加した時、「もし将来、音楽でお金が稼げるようになったら、どちらが作った曲でも二人の共作ということにして、儲けは半分づつにしよう。」と約束しました。

 これは単なる口約束でしたが、ビートルズ解散まで、この二人の男の約束は守られました。

 

 この曲は、ビートルズ解散と相前後して、3回発表されています。
 初出は1970年3月に発売した22枚目のオリジナル・シングル曲かつ解散前の最後のシングル盤、2回目は1970年5月8日に発売された13作目となる最後のオリジナル・アルバム、3回目は1970年5月20日に公開された同名の映画のテーマ曲です。
 それらは、テイクやミキシングの違いにより、歌詞なども少しづつ異なっていますが、その説明は割愛します。

 

 この曲で特徴的なのは、言うまでもなく曲名にもなっている「Let it be」のフレーズの繰り返しです。
 1曲の中で、畳みかけるように合計36回繰り返されています。

 

 そもそも詩歌というものは、公文書や学術論文のように1点の疑義もなく書かれるものではありません。
 やや曖昧かつ包括的で様々な解釈ができる余地を残した方が、より多くの人の人生観に適合するものと成り得ます。
 しかしながら、この「Let it be」の語句については、現代英語として直訳すると、「そのままにしておけ(かまうな)」となることから、「何をやっても無駄だから最初から何もしないほうが良い」という受動的悲観的な解釈と「出来るだけのことをした後は、天命に任せよう」という能動的自主的な解釈の対立を見ます。

 

1 序論
 本考察に於いては、まず、「叡智の言葉」である「Let it be」を語った人物を特定し、次いで資料に基づき「Let it be」の語句の意味を解明して、「Let it be」の語句の解釈について、ポール マッカートニーの真意を推定することを目的とする。

 

2 本論
(1) 「Let it be」を語った人物
 この詩の中では、「Let it be」と語ったのは、「Mother Mary (母メリー)」とされている。
 曲が発表された当初は、叡智の言葉を語るのは、当然の如く「聖母マリア」だと解釈されていた。
 ところが、「聖母マリア」の呼び方には、「blessed virgin」、「virgin Mary」、「the Virgin」、「Saint Mary」あるいは「 Mother of Jesus」など様々な呼び方が有るが、「Mother Mary 」という呼び方だけは見当たらない。
 このことが世上長年の疑問であったが、下記注1に引用するとおり、後にポール自身が、「Mother Mary (母メアリー)」とは自分が14歳のときに乳がんで死亡した母親メアリー マッカートニーのことだと打ち明けた。
 しかしながら、ポールがわざわざこの曲をゴスペル調にアレンジしたことなども考え合わせると、聖母マリアが否定されたわけではない。
 つまり、「Let it be」を語ったのは、直接的には夢に出てきた母親であるが、その母親が聖母マリアの言葉を代弁したと解釈するのが自然である。
 これは、所謂ダブルミーニングの一種と思われる。

 

(2) 「Let it be」の意味
 まず、ポールの夢に出てきたメアリー母さんの言葉は次のようなものであったと伝わっている。
「It will be all right, just let it be.」
『大丈夫、うまくいくわよ、ただあるがままにしなさい』

 

 この言葉には、悩みぬいて万策尽きた息子に対する母親の愛情が込められている。
 息子の努力が前提になっている以上、言外に「人事を尽くして天命を待つ」という能動性が込められているものと考えられる。

 

 次に、聖母マリアの言葉としては、新約聖書のルカ伝福音書の中の「受胎告知」の節にこの言葉は書かれている。
 その詳細は、下記注2に引用するが、伊賀山人の蔵書は文語調でやや分かりにくいので、次に伊賀山人の口語訳を掲載する。
 なお、天使というものは、神の言葉を伝えるだけのメッセンジャーであって、マリアと何らかの交渉をするような権限はない。

 

 【左が天使ガブリエル、右はマリア】

筆者注:

 天使ガブリエルは、受胎告知の任務の清楚・純潔のイメージから、絵画では女性形で描かれることが多いのですが、欧米の聖書では文法の便宜上概ね男性形で記述されています。

 そもそも、天使に性別はありませんので、どちらでも間違いではありません。

 仏教で言えば、観音菩薩と同じようなものです。

 

 【新約聖書ルカ伝福音書中「受胎告知」の口語訳】

 

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。

 ダビデ家のヨセフという人の婚約者である乙女マリアのところに遣わされたのである。

 天使は、彼女のところに来て言った。

 「こんにちわ~おめでと~! マリアはん~。 喜びなはれ~神さんがあんたはんと一緒にいはるで~。」

 

(筆者注:「こんにちわ~おめでと~! マリアはん~」の句は、ラテン語では「Ave Maria:アヴェ・マリア」で、この句が後に聖母マリアへの祈祷文や讃美歌の冒頭に使われるようになりました。)

 

 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこのだしぬけの挨拶は何のことかと考え込んだ。

 

  すると、天使は続けて言った。

 「マリアはん、何も怖がることあらへんで~。あんたは神さんから恵みを貰えんねんで~。 あんたは妊娠して男の子を産むねん。そしたらその子をイエスと名付けなはれ。 その子は大きうなったら偉ろうなって、みんなから尊敬されるねんで~。神さんは、その子に父ダビデの王座とかヤコブの家とか何かよう分からんけど、いろんなもんをくれはんねんやで~。」

 

 この当時のユダヤでの女の結婚年齢は15~18歳であった。

 今で言えば女子高校生くらいの年齢で婚約者もいるマリヤはビックリ仰天した。

 それもそのはず、婚約者のいる女の不倫は、死刑に相当する重罪である。

 

  断わるに如くはなしと、マリアは神の怒りに触れぬよう天使に遠回しに言った。

『何やねん、突然。そんなことありえへん。第一~うちはまだ男の人とアレしたことあらへんねんで~。』

 

 天使は答えた。

「何も~心配いらへんわ~。聖霊ちゅうもんが天国から降りてきて、あんたにちょっかい掛けたら簡単に神さんの子が出来んねん。ほら、 あんたの親類のエリサベト小母さんも、結構年とってるし~もう出来へんのかと思うとったら、今妊娠6箇月になってるやないの~。あれも神さんがしはったことや~。神さんに出来へんことなんか何もあらへんのや~。」

 

  マリアは根負けして言った。

「せやな~、うちも神さんの信者の端くれや~。あんたの言うとおり、神さんの考えどおりにするわ~。*」

 そこで、天使はほっと胸をなでおろして、天国に帰って行った。

 *ここで、原文に「Let it be」が出てくるのは、マリアの最後の言葉「あんたの言うとおり、神さんの考えどおりにするわ~。」である。


 この言葉は、古代英語では次のように書かれている。
 「Let it be unto me according to thy word」 
 これは、現代英語では、次のようになる。
 「As you have speak, so be it to me」

 

 実は、上記のどちらでも複数の意味に解釈できる。
 解1(貴方の話のとおり、そうあって欲しい。)(願望)
 解2(貴方の話のとおり、神の意思に従う。)(受容)
 解3(貴方の話のとおり、それならそれでよい。)(諦観)

 

 同じキリスト教でもカトリックやプロテスタントなど宗派が異なると解釈も異なる。
 カトリックの場合には因果応報的な思想が強く、出来る限りの善行を積んでいれば神は必ずそれを評価してくれるので、人事を尽くして最終的には神の意志に従おう(受容)とする考え方である。
 これに対し、プロテスタントでは人の運命は生まれながらに神の意志によって定まっており、個人の努力で変更は出来ないので、じたばたせずに運命に任せよう(諦観)とする考え方である。
 ポールと母親のメアリーは、カトリック教徒であったので、断定はできないもののどちらかというと「解2」の「(貴方の話のとおり、神の意思に従う。)(受容)」の可能性が強いものと考える。
 なお、「解1」の「(願望)」は、宗教的理念とは関係なく人としての欲求によるものであり、望まぬ妊娠をすることになるマリアの意思とは解しがたい。

 

3 結論
 「Let it be」の意味は、何事にも可能な限りの努力をした後の結果については人智の及ばぬところであり、最終的には「神の意志、御心のままに任せよう。」とする能動的かつ主体性のあるものであり、故事に言う「人事を尽くして天命を待つ。」とほぼ同義である。

 

理由:
1 ポールがあらゆる努力を講じた末に詠じた詩であること。
2 ポールもマリアもカトリック教徒であり、「因果応報」の理念を持つこと。
3 伊賀山人の美意識に沿うこと。

 

注1: ポール マッカートニー談

 

「60年代には僕にとってひどいことがたくさんあったが、僕らは、まあいつも麻薬をやってたからだろうが、ベッドに横になっては一体どうなるんだろうかと考え、偏執狂的にくよくよしたりしたもんだ。そんなある晩、僕は母親の夢を見た。彼女は僕が14歳のとき死んだから、彼女の声は長いことぜんぜん聞いていなかった。だからとってもうれしかった。それで僕は力が湧いてきて『僕が一番みじめなときにメアリー母さんが僕のところへ来てくれた』って文句が思いうかんだ。僕はジョンやパパが出てくる夢も見るが、不思議なことだ。まるで魔法みたいだ。もちろん、彼らに会っているわけじゃなくて自分自身かそれとも何かほかのものに出会っているんだけれどね…」

 

(『ブラックバード ポール・マッカートニーの真実』ジェフリー・ジュリアノ著 伊吹 徹訳 音楽の友社刊より引用)

 

注2: ルカ伝福音書の中の「受胎告知」抜粋

 

御使ひガブリエル、ナザレといふガリラヤの町にをる処女のもとに、神より遣かはさる。この処女はダビデの家のヨセフといふ人と許嫁せし者にて、其の名をマリヤと云ふ。御使ひ、処女の許にきたりて言ふ『めでたし、恵まるる者よ、主汝と偕に在ませり』マリヤこの言によりて心いたく騒ぎ、斯かる挨拶は如何なる事ぞと思ひ廻らしたるに、御使ひ言ふ『マリヤよ、懼るるな、汝は神の御前に恵みを得たり。視よ、汝孕ごもりて男子を生まん、其の名をイエスと名づくべし。彼は大いならん、至高き者の子と称へられん。また主たる神、これに其の父ダビデの神位をあたへ給へば、ヤコブの家を永遠に治めん。その国は終ることなかるべし』マリヤ御使ひに言ふ『われ未だ人を知らぬに、如何にして此の事のあるべき』御使ひこたへて言ふ『聖霊なんぢに臨み、至高き者の能力なんぢを被ほはん。此の故に汝が生むところの聖なる者は、神の子と称へらるべし。視よ、汝の親族エリザベツも、年老いたれど男子を孕らめり。石女といはれたる者なるに、今は孕らめりてはや六月となりぬ。それ神の言には能はぬ所なし』 マリヤ言ふ『視よ、われは主の婢女なり。汝の言のごとく我になれかし*』つひに御使ひ、はなれ去りぬ。

 

 新約聖書 文語訳 ルカ伝福音書 第一章

 

 

 【2009年のデジタルリマスター版】

 

 

 【1962年、ビートルズ結成時最初のプロ写真家によるプレス写真】

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 「The Long and Winding Road(漫漫曲折路)」は、1970年に発表されたビートルズのラスト・アルバム『レット・イット・ビー』の収録曲で、同名の映画『レット・イット・ビー』の中でも歌われています。

 

 この当時のビートルズは、メンバー間の確執が最早修復不能なまでに悪化しており、グループ解散が目前に迫っていました。
 この曲は、公式にはいつもどおりジョン・レノンとポール・マッカートニーのコンビの合作とされていますが、実際にはポールがジョンに向けて「昔に戻ってやり直そう」と語りかけるために一人で作ったものと言われています。

 

 この曲は、ポールの知らぬ間に、新たに音楽プロデューサーに就任したアラン・クレインが

オーケストラによるオーバーダビングを施して発表しました。
 歌詞の内容から、もっとしみじみとした伴奏を期待していたポールは、このドラマチックなアレンジを聞いて「大袈裟すぎる」と不快感を示したと言われています。

 

 歌詞は、アルバムと映画とでは異なっており、またポール・マッカートニー自身のライブでも、その都度やや異なって歌われています。

 

 今回は、ビートルズのアルバム版の原唱からデジタル技術を用いてノイズを除去した2009年のリマスター版でご紹介します。

 なお、今回の漢訳については伊賀山人のものではなく、台灣の現代詩詩人游元弘(1960年10月5日-)のものを引用しました。

 

 

The Long and Winding Road 
長く曲がりくねった道  
(伊賀山人譯)

 

 The long and winding road
 that leads to your door
 will never disappear
 I've seen that road before
 It always leads me here
 Lead me to your door

長く 曲がりくねった道は
君の扉へと通じている
その道は決して消え去ることはない
前にもその道を見たことがある
その道はいつも私を ここまでは導いてくれる
どうかその先の君の扉まで導いておくれ

 

 The wild and windy night
 that the rain washed away
 Has left a pool of tears
 crying for the day

Why leave me standing here,
 let me know the way

荒々しく風が吹き付けていた夜は
雨が洗い流していたが
涙の水溜りだけは残している
それは一日中泣き続けてできたものなのだ
どうして私をここに置き去りにするのか
君の扉を探す方法を教えておくれ

 

 Many times I've been alone
 and many times I've cried
 Anyway you'll never know
 the many ways I've tried

何度も何度も私はひとりぽっちになり
そして何度も何度も泣いていたんだ
それにしても君は知る由もないだろう
君の扉を探すために私が試し続けた数多くの方法を

 

 Still they lead me back
 to the long an' winding road
 You left me standing here
 a long long time ago
 Don't keep me standing here
 lead me to your door

それにも拘わらず試し続けたどの方法も
私をまた元の長く曲がりくねった道に 導いてしまう
ずっと昔、君が私を置き去りにしたこの道へ
どうか私をここに置き去りにしないでおくれ
君の扉へ導いておくれ

 

(間奏)

 

 Still they lead me back
 to the long an' winding road
 You left me standing here
 a long long time ago
 Don't keep me waiting here
 lead me to your door 

それにも拘わらず試し続けたどの方法も
私をまた元の長く曲がりくねった道に 導いてしまう
ずっと昔、君が私を置き去りにしたこの道へ
どうか私をここで待たせきりにしないでおくれ
君の扉へ導いておくれ

 

 

 

 

 

 漫漫曲折路  (游元弘譯)

 

 這漫漫曲折路
 通往你門前
 永遠不會消失
 我曾見過這條路
 總是引我到此地
 引我到你門前 

 

 暴雨狂風的夜晚
 雨水沖刷大地
 留下為白晝而流
 滿盈的淚水
 為何留下我在此佇立
 告訴我該走那條路 

 

 多少次我孤獨一人
 多少次我哭泣不已
 反正你絕不會知道
 我嘗試過多少方法 

 

 然而我還是被帶回
 這漫漫曲折路
 你留下我在此佇立
 那是好久以前的事
 別留下我在此守候
 帶領我到你門前 

 

 然而我還是被帶回這裡
 這漫漫曲折路
 你留下我在此佇立
 那是好久好久以前的事
 別讓我在此苦苦守候
 帶領我到你門前

 

 
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 今回は、歿後四半世紀を経過したアメリカの女優オードリー・ヘプバーンのユニセフ国際親善大使としての側面についてご紹介します。

 

 【1953年の映画『ローマの休日』に主演したオードリー・ヘプバーン】

 

 ユニセフとは、終戦翌年の1946年12月11日に、戦後の国際緊急援助のうち子供を対象とした活動を行うために設立された国際連合総会の補助機関、国際連合国際児童緊急基金(こくさいれんごうこくさいじどうきんきゅうききん、英: United Nations International Children's Emergency Fund:略称はUNICEF)のことです。

 

 当時は日本も主要な被援助国の一つで、1949年から1964年にかけて、主に脱脂粉乳や医薬品、原綿などの援助を受けました。
 伊賀山人も子供のころ、学校給食で毎食脱脂粉乳を飲んで育ちました。
 脱脂粉乳は、現在では加工乳の原料として使用されているもので、そのまま飲むと決して旨いものではありませんが、それでも食糧難の時代には貴重な栄養源でした。

 

 その後ユニセフは、戦災地への緊急援助が行き渡るのにしたがって次第に活動範囲を広げて、開発途上国と戦争や内戦で被害を受けている国の子供への支援を活動の中心にするようになり、『ローマの休日』が公開された1953年に正式名称を国際連合児童基金(こくさいれんごうじどうききん、英: United Nations Children's Fund)に変更しましたが、略称はUNICEF(ユニセフ)のまま使用しています。

 

 ユニセフ国際親善大使とは、ユニセフの広報活動を効果的にするためユニセフ本部が任命するもので、世界的に有名な俳優・歌手・スポーツ選手などがそれぞれ個別に委嘱を受けて就任しています。
 大使の任務は、各大使の才能や業績および知名度を生かして、ユニセフの支援活動に対する人々の関心を高めることにあり、マスメディアを通しての広報活動を中心に、紛争地域への訪問や政界への働きかけなどを主な活動内容としています。
 なお、大使は完全な名誉職で、ユニセフからの報酬は1円も出ません。
 そのため、大使それぞれで、紛争地域にまで出かけて活動する人もいれば、殆ど何の活動もしない人もいます。

 

 

 

 【1961年の映画『ティファニーで朝食を』に主演したオードリー・ヘプバーン】

 

 オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、ベルギー出身のイギリス人で、アメリカ合衆国のハリウッド映画の黄金時代に活躍した女優です。
 映画界ならびにファッション界のトップスターとして知られており、アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) の「最も偉大な女優50選」で第3位にランクインするとともに、インターナショナル・ベスト・ドレッサー (en:International Best Dressed List) にも選ばれて殿堂入りしています。
 オードリーの衣裳は当時フランスで頭角を現していた新人デザイナーのユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy、1927年2月21日 - 2018年3月10日)の手になるものでしたが、映画の中での華麗なイメージとは違って、オードリーが普段の暮らしの中で好んで着ていたのはカジュアルで気楽な衣服でした。

 

 オードリーは、イギリスで数本の映画に出演した後に、アメリカに活動の拠点を移し、1953年にグレゴリー・ペック(Eldred Gregory Peck、1916年4月5日 - 2003年6月12日)と共演した『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得してトップスターの仲間入りを果たしました。
 その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『パリの恋人(Funny Face) 』(1957年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演して、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞しています。
 さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっています。

 

 オードリーが銀幕にデビューしたころのハリウッド女優の美人の条件はマリリン・モンロー(Marilyn Monroe、1926年6月1日 - 1962年8月5日)に代表される「グラマー」と「セクシー」でした。
 身長こそ170cmあったオードリーですが、カモシカのように細身の肢体に清楚な顔立ちの彼女はその条件に合致せず、「Funny Face(ファニー フェイス:可笑しな顔、変な顔)」と評されて揶揄されました。
 しかし彼女はそのようなことは気にせず、却ってそれを逆手に取り、『Funny Face(邦題:パリの恋人) 』と題する映画にも主演しています。
 彼女の魅力が広く世間に知られるようになってから、「Funny Face(可笑しな顔、変な顔)」の意味合いも徐々に変化して「個性的で魅力のある顔」と考えられるようになり、現在では、「Funny Face」は褒め言葉としても使用されるようになっています。

 

 オードリーはその女優業を年齢と共に減らしてゆき、後半生のほとんどをユニセフでの活動に捧げました。
 オードリーがユニセフへの貢献を始めたのは『ローマの休日』で名声を博した直後の1954年からで、1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に邁進しています。

 

 オードリーがユニセフ国際親善大使に就任したのは、既に活動を30数年続けてきた1989年のことで、その時の就任インタビューでオードリーは次のように語っています。

「私は、ユニセフが子どもたちにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜなら、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから。

 

 実は、第二次世界大戦中、オードリーはドイツ軍占領下のオランダのアーネムに住んでいました。
 そこでは、ドイツ軍による食糧略奪の被害を受けて、市民に大勢の餓死者がでる惨状を呈していました。
 当時16歳のオードリーも飢えて痩せ衰えていましたが、ドイツが降伏した直後にユニセフの前身であるアンラという慈善団体から大量の食糧援助を受けて、餓死寸前で命を救われたのです。

 

 

 【アフリカで活動するオードリー・ヘプバーン】

 

 ユニセフ国際親善大使に就任したオードリーは亡くなるまでの4年間、文字どおり命を削る献身的な活動を続けて、 当時最悪の食料危機に陥っていたエチオピアやソマリアをはじめ、世界十数カ国をめぐり、子どもたちの声なき声を代弁し続けました。

 

 オードリーが現地に赴く時には、現地の人々が馴染みやすいように、化粧なしの作業服姿でした。
 そのため、白人とは思えぬ程日焼けして顔中をシミやそばかす、年齢相応以上の皺が覆い、往年の「Funny Face」は見る影もなく、全く別人のような顔つきになってしまいました。
 しかし、本人はそのようなことは全く意に介さず、寧ろ子供たちを救ってきた活動の証であり、恰も神の与えた勲章のように思っていました。

 

 現地で活動中のオードリーは、次のような言葉を残しています。

 

「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」

 

「奇跡を信じない人は現実主義者とはいえません。私はユニセフがもたらした、水という奇跡を目にしてきたのです。何百年にもわたって、水を汲むために少女や女性たちが何マイルも歩く必要がありました。でもいまでは家のすぐそばに綺麗な水があるのです。水は生命です。綺麗な水はこの村の子供たちの健康と同義なのです」

 

「貧しい場所に住む人々はオードリー・ヘプバーンはご存知ないでしょうが、ユニセフという名前を覚えてくださいました。ユニセフという文字を目にしたときにそのような人々の顔が明るくなります。何かが起こるということが分かっているからです。例えばスーダンでは、水を汲み上げるポンプは「ユニセフ」と呼ばれているのです」

 

 

 【ソマリアの子供を抱いて遠くを見据える晩年のオードリー・ヘプバーン】

 

 オードリーは、死去する4箇月前の1992年9月に、ソマリアを訪問しました。
 当時のソマリアは、以前オードリーが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にありました。
 ソマリア視察中、オードリーは自らの体調の異変に気がつきますが、誰にも言わず痛みを我慢しながら仕事に励みました。
 個人的な事情で、荒廃したアフリカの国々を訪問する任務が果たせなくなることを恐れたからです。
 ソマリアから帰国すると、その支援を訴えるべくヨーロッパを廻り、救済キャンペーンに参加しました。

 

 10月になってスイスのレマン湖近傍のトロシュナ (Tolochenaz)村にある自宅に帰ったオードリーは、余りの激痛のため、地元の病院で診察を受けますが、原因がはっきりしませんでした。
 精密検査を受けるためにアメリカのロサンゼルスへと渡り、11月1日にシダーズ=サイナイ医療センター (Cedars-Sinai Medical Center) で腹腔鏡による検査を受けて腹部に悪性腫瘍があり、虫垂にも転移していることが判明しました。

 

 11月中旬に開腹手術が行われましたが、この悪性腫瘍は腹膜偽粘液腫と呼ばれる極めて珍しいがんの一種で、何年もかけて成長したため、すでに身体各部に転移しており、外科手術による摘出は不可能であると判断されたため、なす術もなくそのまま切開部は縫合されてしまいました。
 医者は手術後直ちにオードリーに抗がん剤の投与による化学療法を開始しました。
 ところが、手術から数日後オードリーは腸閉塞を併発して、12月1日に再度開腹手術を行うことになってしまいました。

 

 病気に加えて、二度に亘る手術がオードリーに回復不能なダメージを与え、最早ベッドの上に起き上ることも出来なくなってしまいました。

 

 オードリーの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、彼女の最後になるであろうクリスマスを自宅で過ごさせるために、スイスの自宅へと彼女を送り返すことを決めました。
 しかしながらベッドから起き上がることもできないオードリーは、通常の国際便での旅には耐えることができない状態でした。
 このことを知ったオードリーの衣装デザイナーで長年にわたる友人であるユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をオードリーのために手配しました。
 そして多くの花々で満たされたこのジェット機が、オードリーをロサンゼルスからジュネーヴまで運びました。

 

 オードリー・ヘプバーン危篤の報を受けたアメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュ(George Herbert Walker Bush, 1924年6月12日 - 所謂「父ブッシュ(パパブッシュ)」)は、12月12日、ユニセフ国際親善大使として長年に亘り意欲的に活動して多大な成果を挙げたオードリーに対し、アメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章(Presidential Medal of Freedom)を授与してその労をねぎらいました。
 この勲章は、通常7月4日のアメリカ合衆国独立記念日に授与するのが慣例であったこともあり、大統領ブッシュは緊急記者会見を開いて、オードリーの功績を遍く国民に知らしめて顕彰しました。

 

 家族や友人たちの配慮により、スイスの自宅で楽しいクリスマスを過ごしたオードリーは、新年を迎えた1993年1月20日の夕方、多臓器不全により63年の生涯を閉じました。

 

 オードリーの訃報に接した『ローマの休日』以来の親友グレゴリー・ペックは、オードリーが好きだったラビンドラナート・タゴールの詩 "Unending Love"(果てしなき愛)を涙ながらに朗読して、13歳年下の旧友の早すぎる逝去を悼みました。

 

 オードリーの葬儀は、4日後の1993年1月24日にトロシュナ村の教会で執り行われました。
 この葬儀には、家族の他、友人のユベール・ド・ジバンシィを始めアラン・ドロンやロジャー・ムーアなど各界の有名人や、ユニセフを始めとする諸機関・政府などの高官ら多数の人々が参列しました。
 高齢や体調不良のため参列できなかったグレゴリー・ペックやエリザベス・テイラー、更にオランダ王室などからは献花が届けられました。

 

 葬儀に引き続き、その日の夕刻、オードリーはトロシュナ村を一望できる小高い丘の上にある小さな墓地に埋葬されました。

 

 【トロシュナ村の丘の上にあるオードリー・ヘプバーンの墓地】

 

 オードリーの墓地は、一般墓園の1区画で、棺が漸く入るだけの小さくて質素なものですが、今でも世界中から訪れる弔問者の絶えることがありません。

 

 オードリーは生前、自らの人生について問われて、次のように答えています。

"How shall I sum up my life?

  I think I've been particularly lucky."

 

「私の人生をどのように言い表せばよいのでしょう?

 考えてみると、とりわけ幸運なものであったと思います。」

 

 

         ー 完 ー

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