「この広い野原いっぱい」(このひろいのはらいっぱい)は、丁度半世紀前の1967年(昭和42年)1月2日に発表された日本の新人歌手当時19歳の森山良子(もりやま りょうこ、1948年(昭和23年)1月18日 - )のデビューシングル曲です。

 

 この曲は、森山が偶々訪れた東京・銀座の画廊で見つけたスケッチブックに書かれていた無名の詩人の詩に30分で曲をつけて出来上がったものです。

 

 当時、ジャズシンガーを目指していた森山ですが、この曲がヒットしたことにより、その後、フォークシンガーとしての道を歩むことになってしまいました。
 森山は後に、その当時を振り返って「ジャズが低調でフォークが全盛の、あの時代ゆえのことだったのでしょうか…」としみじみと語っています。

 

 この曲はその後、小学校の音楽の教科書にも採用され、1974年にはNHK番組の『みんなのうた』でも採用されて全国的に放送されています。

 

 歌詩は、4節から構成されており、第1節で「花をあげる」、第2節で「星をあげる」、第3節では「船をあげる」、第4節では「世界中の全てをあげる」と畳み掛けるように詠じているので、単調で平凡な恋歌のように思わせます。
 ところが、最後の第4節の後半で聞く者の意表をついて、「だから私に手紙を書いて」と初めて主人公の願いを詠じて1首の締めくくりとしています。
 即ち、詩人の意図は、この最後のたった一言、「手紙を書いて」に集約されているのであります。
 今どきの若い方々にとっては、「手紙を書いて」の1句は何らインパクトの無いフレーズと思われますので、若干当時の世情について補足説明します。

 

 今から50年前の日本には携帯電話はありません。固定電話はありましたが相手方の家族に聞き耳を立てられますし、また長距離電話など当時の国民の経済状況では、なかなか気軽に掛けられるようなものではなかったため、主たる連絡手段は手紙でした。
 その「手紙を書いて」と訴えかけるということは、詩中の二人の仲が疎遠になり音信不通の状態にあることを暗示しています。
 そのことが、一見単調にも思えるこの楽曲に、哀愁を感じさせる余韻を持たせることに成功して、半世紀の時を超える名曲としての命を吹き込んでいます。

 

 今回は、森山良子のライブ版でご紹介します。

 

 

この広い野原いっぱい  這片廣大無垠的原野

 

                作詩:小薗江圭子 作曲:森山良子 演唱:森山良子

 

この広い野原いっぱい 咲く花を  這片廣大無垠的原野上 花盛開的哦
ひとつ残らず あなたにあげる    一朵都不剩地 全部獻給你
赤いリボンの 花束にして        做成紅色緞帶的花束

 

この広い夜空いっぱい 咲く星を  這片廣大無垠的夜空上 佈滿繁星的哦
ひとつ残らず あなたにあげる    一顆都不剩地 全部獻給你
虹にかがやく ガラスにつめて    如同填滿玻璃杯的彩虹在閃耀著

 

この広い海いっぱい 咲く船を   這片廣大無垠海上 佈滿船隻的哦
ひとつ残らず あなたにあげる   一艘都不剩地 全部獻給你
青い帆に イニシャルつけて     在藍色的帆上書寫你的名字

 

(間奏)

 

この広い世界中の なにもかも   這個廣大世界上的所有一切
ひとつ残らず あなたにあげる    一個都不剩地 全部獻給你
だからわたしに 手紙を書いて   所以請 寫給我信
手紙を書いて                 寫給我信
手紙を~書いて~             寫給~我信~

 

 

 


この広い野原いっぱい - 森山良子

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   【 昭和42年: 伊賀山人(左から二人目)高校2年生 】

 

 「これが青春だ」は、1966年12月10日に発売された日本の歌手布施明の楽曲です。
 作詞は岩谷時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28日 - 2013年(平成25年)10月25日)、作曲はいずみたく(1930年1月20日 - 1992年5月11日)です。
 岩谷時子は、1939年に神戸女学院大学部英文科を卒業後に、宝塚歌劇団出版部に新入事務員として就職しました。
 入社直後23歳の岩谷は、歌劇団にタカラジェンヌとして入団した15歳の越路吹雪と知り合いました。
 二人は意気投合して、岩谷は宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集を務める傍ら、越路の歌うシャンソンの訳詞などを手掛けるようになりました。
 その後、岩谷は越路が退団する時には自分も歌劇団を退職し、越路が世を去るまでの30年間に亘りマネージャーを務めました。
 この間、訳詞だけではなく本格的に作詞も手掛けるようになり、 2013年(平成25年)10月25日に97歳で他界するまでに、少なくとも3000曲を作詞して數多くの歌手に提供してきました。
 曲のジャンルはシャンソンからポップス、演歌に至るまでの幅広いものでした。

 

 今回ご紹介する「これが青春だ」は、1966年(昭和41年)11月20日から翌1967年(昭和42年10月22日)にかけて日本テレビ系で放送された竜雷太主演の同名の学園ドラマの主題歌として作詞したものです。

 

  
 これが青春だ
 這個是青春
                                  作詞:岩谷時子 作曲:いずみたく 演唱:布施明

 

大きな空に 梯子(はしご)をかけて
真っ赤な太陽 両手に掴(つか)もう
誇り一つを 胸にかかげて
怖れ知らない これが若さだ
そうとも これが青春だ

在大的天空上架上梯子
用雙手抓住通紅的太陽
到胸揭起驕傲一個
怕不知道的 這個是年輕
誠然 這個是青春

 

嵐のなかも 君のためなら
七つの海を 泳いでいこう
誇り一つを 胸にかかげて
夢に飛び込む これが若さだ
そうとも これが青春だ

暴風雨中要是也因為君
在七個海裡游泳
到胸揭起驕傲一個
跳入夢的 這個是年輕
誠然 這個是青春

 

(間奏)

 

腹が立ったら 喧嘩もしよう
悲しいときは 涙流そう
誇り一つを 胸にかかげて
いつも裸の これが若さだ
そうとも これが青春だ

そうとも これが青春だ
如果生氣爭吵也做
悲哀時流眼淚
到胸揭起驕傲一個
總是裸體的 這個是年輕
誠然 這個是青春
誠然 這個是青春

 

 

 

追記: テレビドラマ「これが青春だ」は、前作の「青春とはなんだ」に次ぐ東宝青春学園シリーズの第2弾作品です。

 前作の第1弾作品「青春とはなんだ」はラグビーをテーマとする夏木洋介主演のものでしたが、第2弾の「これが青春だ」はサッカーをテーマとするものに変わり主演は同じく夏木で企画されていましたが、夏木が他の映画に出演することが決まったため、急遽無名の新人であった竜雷太が起用されました。

 これが大ヒットなり、竜雷太は第3弾となる次作の「でっかい青春」( 1967年10月29日 - 1968年10月13日)でも主役を務めることになりました。この「でっかい青春」では、テーマは「青春とはなんだ」と同じラグビーに戻されています。

 その後も長く続いたこの青春シリーズのテーマスポーツは、ラグビーとサッカーを交互に取り上げることになりました。

 なお、記事冒頭の写真は、向かって左から二人目が伊賀山人で1967年(昭和42年)某高等学校ラグビー部キャプテンの時のものです。

 

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 歌曲「芭蕉布(ばしょうふ)」は、1965年(昭和40年)7月2日に、ハワイ生まれで沖縄系三世のアメリカ人歌手、クララ新川の演唱により発表された楽曲です。
  この歌は、曲がまず先に作られました。
  作曲は、新しい沖縄の楽曲づくりに情熱を傾けて、西洋音楽でも既存の沖縄民謡でもない新しい沖縄サウンドを作り出し、現地では古賀政男と並び称される普久原恒勇(ふくはらつねお)が担当しました。
  クララ新川のために「沖縄らしい曲を」と知人から頼まれた普久原は「外国の人にも歌いやすいように、日本にも沖縄にもない常識破りのパターン」で作曲しました。
  出来上がったばかりで題名のないこの曲のために、普久原は知人に作詞を依頼しましたが、一番は「大和口(日本語)」、二番は「英語」、三番は「混有型」という難しい注文を付けたため、なかなか出来上がりませんでした。
  そうこうしているうちに、地元で中学校教師をしていた吉川安一から「芭蕉布」と名付けられた沖縄口(ウチナーグチ:沖縄語)の詞が持ち込まれました。
  吉川はこの詞について、「母が芭蕉布を織っていたが、その幼いころの記憶を縦糸に、亜熱帯海洋性の温暖な自然の美や独自の言語、文化を横糸にして織りなし、特に地域を限定しないふるさと沖縄賛歌として書いた。」と語っています。
  また、海の青さ、空の青さには「温暖な気候や自然の美、自分の母だけでなく沖縄の女性の明るさや優しさを象徴させる」とともに「平和の色彩」のシンボルにしたとも述べています。
  この詞の中の一句、「芭蕉は情けに手を招く」とは、芭蕉が風に葉をなびかせる姿を擬人化して「沖縄の人たちのチムグクル(心根)、イチャリバチョーデー(一度会ったら皆兄弟)の精神」を込めたものです。

 

 こうして完成したこの歌は、1965年(昭和40年)5月18日RBC琉球放送スタジオで録音されて、7月2日に普久原恒勇の養父である普久原朝喜が経営していた沖縄民謡のレーベル「マルフク レコード」(大阪)から発売されました。
 インディーズのレーベルでもあり、レコードはほとんど売れなかったようですが、ラジオ番組などでの紹介もあり、徐々に沖縄の人々の間に浸透して、今では沖縄民謡の一つに数えられるようになり、多くの歌手がカバーしています。

 

 沖縄音階ではないにもかかわらず、南国の芭蕉の葉陰で爽やかな風に吹かれるような郷愁を漂わせるこの楽曲を、今回は原唱のクララ新川版と新しいところで♪癒しのポップバラード歌手♪芙美子の版でご紹介します。
 なお、原詞は沖縄語ですので、標準語への翻訳文を青字で添付しました。

 

 芭蕉布                 
                    作詞:吉川安一 (沖縄語)
                    作曲:普久原恒勇
 1節 
海の青さに 空の青
南の風に 緑葉(みどりば)の 
芭蕉は情けに 手を招く  
常夏(とこなつ)の国
我(わ)した島 沖縄(うちなー)

海の青さに 空の青
南の風に 緑葉の
芭蕉は情けに 手を招く
常夏の国 
私たちの故郷の島 沖縄
 (「島」には、本来の「島」と「故郷」の両義がある)

 

 2節 
首里(しゅり)の古城の 石だたみ  
昔を偲(しの)ぶ かたほとり  
実れる芭蕉 熟(う)れていた  
緑葉の下   
我(わ)した島 沖縄(うちなー)

首里の古城の 石畳
昔を偲ぶ かたほとり
(「かたほとり」とは「町外れ」を意味する日本語の古語)
実れる芭蕉 熟れていた
緑葉の下 
私たちの故郷の島 沖縄

 

 3節 
今は昔の 首里天 加那志(しゅいてぃん じゃなし)   
唐ヲゥー(とううぅー)つむぎ はたを織り 
(「ヲゥ」は、ワ行の「ウ(WU)」を示す。)

上納(じょうのう)ささげた 芭蕉布(ばしょうふ)   
浅地(あさじ)紺地(くんじ)の  
我(わ)した島 沖縄(うちなー) 

今は昔の 首里王様に(首里天は首里王、加那志は王族への敬称)
芭蕉の糸を紡ぎ 機(はた)を織り
上納して捧げた 芭蕉布 
浅地紺地の
(「浅地」は薄茶色、「紺地」は藍色)
私たちの故郷の島 沖縄

 

 


48年前のクララ新川 「芭蕉布」マルフク オリジナル盤原音
52年前のクララ新川「芭蕉布」マルフクレコード KF149 オリジナル盤原音
1965年(昭和40年)5月18日RBC琉球放送スタジオにて録音  7月2日販売開始
  

 

 芭蕉布(台灣版本)
                      塡詞:伊賀山人
 1節
海藍天空的青
因為南風 綠葉的
芭蕉向同情招待手
常夏的國
我們的故鄉的島 台灣

 

 2節
台北的古城的舖石的地
回憶從前的偏僻的鄉村
結果實的芭蕉
熟的 綠葉下
我們的故鄉
的島 台灣

 

3節
往昔的台北大王
紡芭蕉的線織時機
上繳奉獻的芭蕉纖維織的布
薄茶色藍色映照
我們的故鄉
的島 台灣

 


芭蕉布
♪癒しのポップバラード歌手♪ 芙美子

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