【「蔦のからまる チャペル」前に建立された「学生時代」の歌碑】

 

 「学生時代」(がくせいじだい)は、日本の歌手ペギー葉山(ペギーはやま:1933年12月9日 - 2017年4月12日)が、今から56年前の1964年(昭和39年)に発表した楽曲です。

 

 歌詞の内容は、ペギー葉山の母校である青山学院の女子高等部でのペギー自身の思い出を詠じたものです。

 

 作詞・作曲は、ペギー葉山の2年先輩で青山学院の大学卒業生である平岡精二(ひらおか せいじ、1931年8月13日 - 1990年3月22日)、当時「平岡精二クインテット」というジャズバンドを率いていた人です。

 

 平岡精二の書いた原詞の詞題は「大学時代」でしたが、大学進学率は戦後徐々に増大しつつあるとはいうものの昭和39年当時、大学進学率は23.3%、大学卒業率となると僅か7.5%に過ぎませんでした。

 当時の日本人の人口は9800万人で、その内大学卒業者となると100人に1人もいない時代でした。

 

 このような中で、「大学時代」と題する楽曲では、多くの国民の共感は得られないと考えた女子高卒のペギー葉山の提案により、詞題は「学生時代」に改められました。

 このことが功を奏して、このレコードはミリオンセラーとなる大ヒット作となりました。

 

 詞中に見える「蔦のからまる チャペル」とは、キリスト教プロテスタントのミッションスクールである青山学院の校内にある「ベリーホール(国の登録有形文化財)」に連接する「チャールズ・オスカー・ミラー記念礼拝堂」のことです。

 

 「ベリーホール」とは、1931年(昭和6年)5月に神学部校舎として建築されたもので、建築のための寄付金集めなどに貢献した元神学部長のA.D.ベリー博士の名を付けられた建物ですが、現在は学校法人青山学院の本部として使用されています。

 

 「チャールズ・オスカー・ミラー記念礼拝堂」とは、「ベリーホール」と一体で建築されたもので、入り口は「ベリーホール」内に有ります。
 礼拝堂内部の備品が、ニューヨーク州のチャールズ・オスカー・ミラー夫人の遺志による寄付金で備えられたことから、この名が付けられています。

 

 上掲画像では、蔦のからまっている部分が「チャペル」で、その右のゴシック調の建物が「ベリーホール」です。

 

 本楽曲は、発表当時から青山学院内では「第二の学院歌*」とも呼ばれており、2009年(平成21年)3月18日には、青山学院創立135周年を記念して「学生時代」の歌碑が「蔦のからまる チャペル」前に建てられました。
 この歌碑の除幕式にはペギー本人と故人となった平岡精二の遺族が出席して、当時75歳であったペギーが亡き先輩を偲びつつ本楽曲を熱唱しました。
 なお、そのペギー葉山も一昨年4月、83歳でこの世を去っています。

*筆者注:

 幼稚園から大学まで揃っている青山学院の「第一の学院歌」は、「青山学院の歌」という楽曲でしたが、1974年(昭和49年)に青山学院創立100周年を記念して、元院長大木金次郎の作詞に「学生時代」の作者平岡精二が曲を付けて、「校歌」が新規に制定されています。

 現在は、この「校歌」が「第一の学院歌」の位置づけになっています。

 
 今回は、やや音質が低下していますが、56年前のペギー葉山の原唱でご紹介します。
 なお、バック演奏は、「平岡精二クインテット」が担当しています。

 

 

 学生時代 
 學生時代

        作詞・作曲:平岡精二 演唱:ペギー葉山 演奏:平岡精二クインテット
 1節
つたのからまるチャペルで 祈りを捧げた日
夢多かりしあのころの 思い出をたどれば
なつかしい友の顔が ひとりひとり浮かぶ
重いカバンを抱えて通ったあの道
秋の日の図書館の ノートとインクのにおい
枯葉の散る窓辺 学生時代

在爲地錦所纏繞的教堂裡 做出祈禱的日子
一追憶著那時候 所做的很多美夢的話
懷念的朋友的臉孔 一個個浮現出來
抱著沉重的包來往的那個道路
秋天的日的圖書館裡 筆記本與墨水的哎
還有枯葉散落的窗邊 學生時代

 

 2節
賛美歌をうたいながら 清い死を夢みた
何のよそおいもせずに 口数も少なく
胸の中に秘めていた 恋へのあこがれは
いつもはかなくやぶれて 一人書いた日記
本棚に目をやれば あのころ読んだ小説
過ぎし日よわたしの 学生時代

一邊唱讚美歌 一邊做夢見清純的死去
也不需要什麼打扮 也不做話語的數量也很少
向在胸中隱藏的 戀愛的憧憬
總是幻象破滅的 獨自一人寫的日記
如果為書架看的是 那個時候所讀的小說
所度通過的日子是我的 學生時代

 

 3節
ローソクの灯に輝く 十字架をみつめて
白い指をくみながら うつむいていた友
その美しい横顔 姉のように慕い
いつまでも変らずにと 願った幸せ
テニスコート キャンプファイヤー
なつかしい日々は帰らず
すばらしいあのころ 学生時代

すばらしいあのころ 学生時代~
注視著燭光輝煌的 十字架
一邊交叉白的手指 一邊低下頭來的朋友
一様的美麗側臉 像姊姊一樣地愛慕 
永遠往常一様 祈求著不變的幸福
網球場 露營火
所懷念的日子再也回不來了
好棒的那個時候 學生時代

好棒的那個時候 學生時代~

 

 


学生時代(昭和39年)ペギー葉山

 

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 『I LOVE YOU(アイ ラブ ユー)』は、日本のシンガーソングライターでその死後夭折の天才と称された尾崎豊(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)が1983年12月1日、高校在学中に発表したファースト・アルバム『十七歳の地図(じゅうななさいのちず)』に収録されている楽曲で、1991年3月21日にはシングル・カットしてリリースされています。

 

 この曲が創作された経緯は、尾崎のデビュー・アルバムである『十七歳の地図』の制作も終盤に差し掛かった頃に、プロデューサーである須藤晃から「曲が足りないからバラードを一つ書いてきてくれ」と言われた尾崎がその場で、ほぼ即興的に創作した楽曲のようです。

 

 その後、この曲は尾崎の代表曲として生前のライブでもほぼ欠かさず演奏されており、彼の死後も様々なメディアに使用され、また多くのミュージシャンによってカバーされています。

 

 尾崎本人としては、アルバムの穴埋めに作った曲でそれほど大した楽曲とは認識しておらず、さらなる完成度の高い楽曲の制作を目指していました。

 しかしながら、この曲は急場しのぎで作っただけに、却って音楽的にはわざとらしさのない素直な楽曲に仕上がっており、アジアのみならず世界各国の歌手にカバーされてカバー曲を含めた総売上は全世界で1,000万枚を超える大ヒット作になっています。

 

 その後の尾崎は、「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を数多く創作して、マスメディアからは「10代の教祖」「若者のカリスマ」などとも呼ばれて一世を風靡しました。
 ところが、20歳を過ぎて今まで自分が批判してきた大人の立場になってからは音楽の方向性を見失い、突然無期限活動休止を宣言し単身渡米をします。
 帰国してからは、詩想を「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものに変えて一時的には人気を取り戻します。
 しかしながら、自らの独立事務所を起ち上げてからは業務に多忙を極め、心身ともに疲労困憊して精神に変調をきたし覚醒剤を濫用するようになります。
 そして、1992年(平成4年)4月25日早朝、自宅から500メートルの民家の庭で倒れて、一旦は帰宅したもののその後容体が急変し救急車で日本医科大学付属病院に搬送されて手当てを受けますが、午後0時6分に26歳の短い生涯を閉じました。
 死因は、覚醒剤中毒 (メタンフェタミン中毒) に起因する肺水腫でした。

 

 本記事執筆に先立ち、尾崎の著書を数冊読んでみましたが、彼の簡明な作詞とは対照的に豊富な語彙を駆使した哲学的なものでした。

 著名人の著作にはよくあることで尾崎からの聞き取りでゴーストライターが代筆しているのかもしれませんが、その内容となる思想には、当時の20歳前後の若者には珍しく深遠なものがありました。

 

 尾崎の思想や活動、若者におけるカリスマ的人気などは、その反抗心と過激性から中学・高校などの教育現場では長らくタブー視されて来ましたが、死後十年以上経った頃から、評価も変わって来ており、高校教科書に顔写真や『15の夜』の歌詞が掲載されて「1980年代に活躍し、夭折したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように肯定的に記述されています。

『高等学校 新倫理 - 人間とは何か 思索の糧に - 』( 清水書院、2002年)

『新課程用 倫理用語集』(山川出版社、2005年)

 

 I LOVE YOU 
                               作詞 / 作曲:尾崎豐 原唱:尾崎豐
I love you 今だけは悲しい歌 聞きたくないよ
I love you 逃れ逃れ 辿り着いたこの部屋
何もかも許された 恋じゃないから
二人はまるで 捨て猫みたい
この部屋は 落葉に埋もれた空き箱みたい
だからおまえは 小猫の様な泣き声で

I LOVE YOU 唯獨現在,不想再聽那悲哀的歌了
I LOVE YOU 逃啊逃啊,到達了這所房子
因為不是能被包容一切的戀愛
令我們二人像是被捨棄的貓那樣
這所房子彷如被落葉鋪滿的空箱
為此,妳發出像小貓那樣的哭聲

 

きしむベッドの上で 優しさを持ちより
きつく躰 抱きしめあえば
それからまた二人は 目を閉じるよ
悲しい歌に 愛がしらけてしまわぬ様に

在吱吱作響的床上,我們聚集溫柔
緊緊地抱著對方的身軀
接著我們二人再次閉上兩眼
讓愛在哀歌中永不褪色

 

I love you  若すぎる二人の愛には 触れられぬ秘密がある
I love you 今の暮しの中では 辿り着けない
ひとつに重なり 生きてゆく恋を
夢見て 傷つくだけの二人だよ
何度も「愛してるっ?」て聞くおまえは
この愛なしでは 生きてさえゆけないと

I LOVE YOU 過份年青的二人的愛存在著不可以觸碰的秘密
I LOVE YOU 現在的生活,已經無法到達目標
我們是夢想著一起生活的戀愛
而互相傷害的兩個人
問了很多次「你愛我嗎?」的妳
對我說沒有這份愛就活不下去

 

きしむベッドの上で 優しさを持ちより
きつく躰 抱きしめあえば
それからまた二人は 目を閉じるよ
悲しい歌に 愛がしらけてしまわぬ様に

在吱吱作響的床上,我們聚集溫柔
緊緊地抱著對方的身軀
接著我們二人再次閉上兩眼
讓愛在哀歌中永不褪色

 

それからまた二人は 目を閉じるよ
悲しい歌に 愛がしらけてしまわぬ様に

接著我們二人再次閉上兩眼
讓愛在哀歌中永不褪色

 

 

 

 

 

 尾崎豐(日文:尾崎豊,1965年11月29日-1992年4月25日),日本歌手,作詞家、作曲家。對日本樂壇留下深刻影響,尤對當時年輕一代衝擊最鉅,人稱「10代的教祖」。於1992年過世,然而其名曲如《I Love You》、《Oh My Little Girl》等,在他過世後二十餘年的今天仍被不斷地翻唱與流傳。

 

概要

 1983年,17歲的他以單曲『15之夜』和專輯『十七歲的地圖』出道。從第四張單曲『畢業』開始知名度大開。以唱出追求自由與夢,面對學校社會的不合理的反叛心聲而聞名,並在當時的年輕一代中成為極具感染力的存在。代表曲『畢業』,『I LOVE YOU』,『OH MY LITTLE GIRL』。等

 

 在26歲突然的死亡給予愛好者極大的衝擊,現在還懷念尾崎的愛好者依然不乏。

 

經歷

 1965年,尾崎豐在東京都練馬區出生,是二人兄弟的次子。練馬區立田柄第二保育園練馬區立田柄第二小學入學。後來一家在1976年8月12日搬到崎玉縣朝霞市,於是在小學五年級下學期轉學到朝霞市立小學。因為父親是防衛廳職員,小時候活動範圍常在陸上自衛隊練馬軍區和朝霞軍區附近,母親是保險的外勤員生活。家境絕不富裕,但也稱得上小康,並是個重視教育的家庭。

 

 初中,根據本人希望,越境到向練馬東初中(俗稱·neritou)入學。練馬東初中時代,擔任學生會副會長。高中青山學院高等部合格。並且,1月15日接受了陸上自衛隊少年工科學校錄取率20分之1的困難考試,成功錄取。但由於該校規定剪短頭髮,他放棄該資格而選擇青山學院就讀。之後卻在青山學院高等部在校中遭學校受到無期停學處分,這也是製作最初專輯的契機。出席日數不夠而被留級,而他自己決定退學。

 

 初次亮相時,當初口耳相傳而知道他的愛好者其實不少。所以最初專輯『十七歲的地圖』第一批銷售三千張的成績,算是有點意外的少。之後的單曲『畢業』受到歡迎,才確立了他事業的一定地位,並被一些音樂評論家大為稱讚,也很早就有音樂雜誌製作他的特集。雜誌上的照片依尾崎本人意願,10幾歲時的照片全部以黑白照片刊載。

 

 由於初期大量把對大人和社會的反抗做為題目的歌,被報紙等媒體稱為「10代的教祖」,不過,本人及許多長久支持者說過其實討厭這樣的名稱。然而其曲確實與當時社會校園破壞與叛逆行為的增長有關(深夜弄碎初中的窗戶玻璃等行為的人在尾崎出道前早已有,不過,一般認為這些年輕人的行為和單曲「畢業」的歌詞也有關)。另外,研究尾崎歌詞的愛好者中,有些人對校園破壞行為是持肯定看法的,這也受到了批判。

 

死亡

 1992年4月25日早晨,尾崎豐被居民發現倒在東京都足立區千住河原町的平房屋簷下,且渾身是傷。居民通報後,他被送醫觀察,但醫生的診斷僅是「飲酒過量」。之後尾崎豐和妻子一起安然回到家中。然而就在當天下午,家人發現他已經呼吸停止,並緊急通報救護車送往日本醫科大學附屬醫院急救。急救無效,宣告死亡,那年的他只有26歲,留下妻子與一個兩歲的兒子。

 

 調查後的正式官方死因是「使用藥物過量引起的肺水腫」。但尾崎豐在死前渾身的傷痕與瘀青,當局卻無法解釋,於是他殺的說法也廣為流傳著。但儘管如此疑點重重,當局的最後結論仍沒有改變。

 

 喪葬儀式是東京都文京區進行,喪禮現場追悼者多達四萬餘人,僅次於美空雲雀,吉田茂的規模 ,墓地在崎玉縣所澤市。

 

 現在,尾崎死亡當天清晨倒臥著的地方:千住河原町的民房,因屋主的好意對外開放,名為「尾崎ハウス」(尾崎House),安有許多紀念物,時有往來旅者駐足致意。

 

評價

 尾崎代表曲『I LOVE YOU』這些年來被亞洲各國的歌手翻唱,原曲與翻唱曲的銷量在全世界已經達到1000萬張以上。在他的時代,其帶叛逆的思想因受到大批年輕人的歡迎,所以在學校等教育機構是被視為禁忌人物的。但在他從死後十數年後開始到現在,評價已經改變,甚至在日本高中教科書正面有著他的半身照片與『15之夜』的歌詞。

 

 他在2003年HMV進行的「日本史上100位偉大音樂家」評鑑中,名列第23。2004年,日本樂壇眾多歌手包括Mr.Children、宇多田光、槙原敬之等人合作製作了尾崎豐致敬專輯A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI。這張由他作詞作曲的致敬專輯取得了Oricon冠軍 - 在他過世的整整12年後。

 

 他的著作『Oh My Little Girl』被選為鈴木保奈美和三上博史主演日劇『愛,沒有明天』主題曲,再度在日本暢銷狂賣百萬張,但尾崎豐仍只靜靜地躺在地下。『尾崎豐物語』充滿傳奇,全源自一捲黑色的試聽卡帶。這捲『十七歲的地圖』的卡帶,改變了八十年代的日本流行音樂。

 

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 『泣いてたまるか』は、TBS系列で1966年から1968年まで放映された、同名の1話完結形式の連続テレビドラマの主題歌です。
 このドラマは、毎回脚本家が変わり、俳優の渥美清(あつみ きよし、1928年(昭和3年)3月10日 - 1996年(平成8年)8月4日)が毎回違う役柄で出演するというコンセプトで始まりました。

 

 当時、渥美清は肺病の後遺症で体力がもたず、青島幸男や中村嘉津雄が代理で主役を務めることもあり、後に渥美清主演作品のみの再放送やDVDの発売がされるようになってからは、『”渥美清の”泣いてたまるか』と肩書を付けて呼ばれることもあります。
 その中で最終回の山田洋次が脚本を手がけた「男はつらい」という1話は、その後渥美清の代表作となる『男はつらいよ』の連続テレビドラマ化および映画化につながっています。

 

 このドラマの中での渥美の役どころは、寅さん風のアウトロー的な役はもちろん、トラックドライバー役、実直な教師役や平のサラリーマン役、更には偽傷痍軍人役等、多岐に亘っています。
 どの主人公にも共通するのは、いつも一所懸命努力するものの不器用で成果は上がらず世間にも認められず、お人好しを利用されて常に他人に出し抜かれて損ばかりしている運の悪い男であることです。

 

 主題歌の『泣いてたまるか』は、そのような不器用で実直な男が泣きたい気持ちに耐えて生きて行こうとする心情を詠じたもので、中村嘉津雄主演の時には木更津次郎が歌っていますが、その他は渥美清が自ら演唱しています。

 

 作詞は良池まもる、作曲は木下忠司で、1966年クラウンレコードから発売されています。

 

 

泣いてたまるか 
不哭 忍耐嗎

                      作詞:良池まもる 作曲:木下忠司 演唱:渥美清
天(そら)が泣いたら 雨になる
山が泣くときゃ 水が出る
俺が泣いても なんにも出ない
意地が涙を
… 泣いて 泣いて たまるかヨ…
通せんぼ

天如果哭成為雨
山哭的解水出來
我哭什麼都也不出
意氣使眼淚
…不哭 不哭 忍耐嗎…
擋住去路

 

海は涙の 貯金箱
川は涙の 通り道
栓をしたとて 誰かがこぼす
ぐちとため息
… 泣いて 泣いて たまるかヨ …
骨にしむ

海眼淚的 存錢罐
河眼淚的 通路
試著做也栓 誰灑
牢騷和嘆氣
…不哭 不哭 忍耐嗎…
刺激骨

 

上を向いたら キリがない
下を向いたら アトがない
さじをなげるは まだまだ早い
五分の魂
… 泣いて 泣いて たまるかヨ…
夢がある

如果朝向上面幸運的人不數斷
如果朝向下面繼承的人不在
可是 束手無策 還還早
一寸的蟲有的五分的魂
…不哭 不哭 忍耐嗎…
也有夢

 

 


『泣いてたまるか』主題歌 渥美清

 

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