【伊賀山人コスモス園から見る藍天・白雲・靑山・淡紅花】

 

 「秋桜」(コスモス)は、日本の歌手山口百恵が1977年10月1日に発表したのが初出の楽曲です。
 歌詞は、嫁ぐ娘が母親を想う心情を詠じたもので、初出の山口は切々と無難に歌い合上げていますが、本人は3年後の1980年に俳優の三浦友和と結婚して芸能界を引退する頃になって漸くこの歌の真意が解るようになったと述べています。

 

 作詞・作曲は日本のシンガーソングライターさだまさしによるもので、さだまさし自身も1978年3月25日にセルフカバーした版を「私花集」と題するアルバムに収録して発表しています。
 山口が引退してからは、中森明菜や福山雅治、平原綾香などポップス・演歌・クラシック等のジャンルを問わず数多くの歌手がカバーしており、山口の息子の三浦祐太朗も歌番組などで演唱しています。

 

 しかしながら本家本元のさだまさしには及びもつかず、さだはこの楽曲を1992年の第43回と1997年の第48回の『NHK紅白歌合戦』でも演唱しています。
 今回は、さだまさし版でご紹介します。
 なお、この楽曲が知られるようになってから「コスモス」の別名の「秋桜」を「コスモス」と読む人が増えてきましたが、「秋桜」の読みはあくまでも「あきざくら」です。
 

 

 秋桜
 大波斯菊

                     作詞・作曲・演唱:さだまさし
淡紅(うすべに)の秋桜(コスモス)が秋の日の
何気ない 陽溜(ひだま)りに揺れている
この頃 涙脆(なみだもろ)くなった母が
庭先でひとつ咳(せき)をする
縁側でアルバムを開いては
私の幼い日の思い出を
何度も同じ話 くりかえす
独り言みたいに 小さな声で
こんな小春日和の 穏やかな日は
あなたの優しさが 浸みて来る
明日(あした)嫁ぐ私に
苦労はしても
笑い話に時が変えるよ
心配いらないと笑った

秋日的粉紅秋櫻         
無心地在陽光中搖曳       
最近時常流淚的母親       
在院子輕咳了一聲        
她坐在廊子翻看相簿       
回憶起我的童年         
不斷重複說著同樣的話      
聲音小得像在自言自語      
在這種小陽春的溫和日子     
我深深感到您的體貼      
對明日將出嫁的我,
「往後再辛苦 
時間會把一切都化為談笑     
不用擔心」,您笑著說 
     

 

あれこれと思い出をたどったら
いつの日も ひとりではなかったと
今更ながら我儘(わがまま)な私に
唇かんでいます
明日への荷造りに手を借りて
しばらくは楽し気にいたけれど
突然涙こぼし 元気でと
何度も何度もくりかえす母
ありがとうの言葉を かみしめながら
生きてみます 私なりに
こんな小春日和の 穏やかな日は
もう少しあなたの子供で
いさせてください

我追憶種種往事         
才發現從來不曾孤獨過      
想到過去任性的自己       
不禁咬住嘴唇          
您幫忙收拾明日的行李      
看起來心情很愉快        
卻突然淌下淚,「要保重啊」   
再三重複同一句話        
道謝的話欲言又止        
我將試著自己活下去       
在這小陽春的溫和日子      
請再讓我多做一會兒       
您的孩子吧    
  

 

 


秋桜

 

 【伊賀山人庭園のコスモス】

 

文章標籤

伊賀山人 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

 

 兼好法師(けんこうほうし、1283年頃~1352年以降)、本名卜部兼好(うらべ かねよし)は、今から700年ほど前の官人であり歌人・随筆家でもあった人です。30歳頃に出家したため、自他共に兼好法師と称されていましたが、後の世に卜部氏が吉田と改名したことにより、江戸時代以降は吉田兼好(よしだ けんこう)と通称されています。

 

 兼好法師は、日本3大随筆の一つとして知られる「徒然草」を執筆したことで有名ですが、この徒然草は、本人生存中には日の目を見ず、没後100年くらい経ってから世に出ました。その頃には既に原本は失われており、いくつかの写本を残すのみでありました。現在伝わっているものは、その写本ごとに内容が少し異なるところもありますが、世の文筆家にとっては必携の書となっています。

 

 法師は、晩年、伊賀国名張郡国見山(現在の三重県伊賀市種生国見)にあった国見寺の一隅に庵を開き、余生を過ごす傍ら徒然草を執筆し、1350年に没後この地に埋葬されたと伝えられております。法師がこの地で徒然草の草稿を練ったことを記念して、この「国見寺」は法師没後、その寺名を「草蒿寺(そうこうじ)」と改めて、七堂伽藍の建ち並ぶ大寺として約230年の歴史を刻んでおりました。

 

 ところが、戦国時代の1581年に至り、天下に覇を唱えんと目論む織田信長の軍勢に伊賀は攻め滅ぼされてしまいます。これぞ世に言う「天正伊賀の乱」。このとき織田軍主力の猛攻撃を受け追い詰められた伊賀の残党が、最後の砦として、この草蒿寺やその隣の国見山城一帯に立てこもりました。
 衆寡敵せず、寺も城も家も人もことごとく焼き尽くされて、兼好法師の遺品や徒然草にまつわる古文書もその全てが灰燼に帰してしまいました。

 

 時代は下り、この地の人々は兼好法師とその偉業を顕彰するため、明治38年(日露戦争の頃)には遺跡碑、昭和55年には記念碑(上記画像)を建立して現在に至っております。

 

 兼好法師が世に知られるのが遅かったこともあり、終焉の地については異説もありますが、伊賀の地に、法師と徒然草を顕彰する史跡が現存するのは、まぎれもない事実なのであります。

 

 当ブログのタイトル、「伊賀の徒然草」は、この故事にあやかっています。
 蛇足ながら、「徒然草」の「徒然」とはすることが無くて退屈なさまを言います。「草」とは植物の草ではなく、「起草」「草案」などの用法に見るように「詩歌や文章の下書き」の意です。

 

 

【「町史蹟」とは、平成16年の市町村合併による伊賀市発足前の旧青山町の史蹟の意】

 

  國破山河在  城春草木深・・・   合掌

文章標籤

伊賀山人 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

 

 【台灣の厝角草(そかくそう:角の方に置かれる草即ち「雑草」の意)】
 〔別名:母子草(ははこぐさ)、御形(ごぎょう)、鼠麴草(そきくそう)〕

 

 「雑草のうた」は、日本の歌手で浪曲師の二葉百合子(ふたば ゆりこ、1931年6月23日 - )が、1994年04月06日 に発表したアルバム『雑草の歌』の第1曲目に収録しているアルバムの表題曲です。(曲名の方は漢字の「歌」ではなくひらがなの「うた」)

 

 この楽曲が発表される18年前の1976年(昭和51年)に日本の歌手美空ひばり〔みそら ひばり、1937年5月29日 - 1989年6月24日〕が、自ら作詞して遠藤実が曲を付けた同名の
「雑草の歌」が発表されていて、歌題も詞想も似通っていますが別の楽曲です。

 

 美空ひばり版では、自らを雑草に擬えて、自分は踏みつけられても生き抜いて雑草のように強い女になったのだと詠じていますが、二葉百合子版では雑草の忍耐心と謙虚さと強い生命力とを詠じたもので、暗に自分もそうありたいとの願望が籠められた歌詞になっています。

 

 作詞は荒木とよひさ、作曲は岡千秋、世上にあまり知られてはいませんが、3歳で浪曲師として初舞台に立ってから、浪曲師として歌手として或いは若手演歌師の歌唱指導者として活躍した二葉百合子の芸能生活60周年を記念する一曲ですが、今回は作曲家の岡千秋の演唱でご紹介します。

 

 
 雑草のうた
 雜草之歌

              作詞:荒木とよひさ 作曲:岡千秋 演唱:二葉百合子

 

下駄(あし)で踏まれりゃ 耐えなさい
泥をかぶれば 耐えなさい
この世に生まれた 雑草は 雑草は
弱音吐かずに 背伸びして
空を見上げて 生きている

如果用木屐被踏了 請忍耐
如果澆淋泥 請忍耐
人世生的 雜草 雜草
不說出弱音 蹺起腳
仰視天空 活著

 

桜(はな)に生まれた 人もいる
母を知らない 人もいる
この世に名もない 雑草は 雑草は
人を嫉(ねた)まず 羨(うらや)まず
大地(つち)に根っ子で 生きている

成為櫻花的花出生的 人也在
不知道母親的 人也在
人世名也沒有的 雜草 雜草
不忌妒人 不羨慕人
到大地紮下根 活著

 

雨にも敗けずに くいしばり
風にも敗けずに くいしばり
この世を見捨てず 雑草は 雑草は
冬に枯れても また春に
生命いっこで 生きている

也不輸雨 咬緊牙齒
也不輸風 咬緊牙齒
不棄而不顧人世 雜草 雜草
冬天枯萎 又也向春天
由於一個生命 活著

 

 

 

文章標籤

伊賀山人 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

Close

您尚未登入,將以訪客身份留言。亦可以上方服務帳號登入留言

請輸入暱稱 ( 最多顯示 6 個中文字元 )

請輸入標題 ( 最多顯示 9 個中文字元 )

請輸入內容 ( 最多 140 個中文字元 )

reload

請輸入左方認證碼:

看不懂,換張圖

請輸入驗證碼