日本の唱歌「仰げば尊し」は、台灣でも戦前の日本統治下で歌い継がれてきました。
 戦後、この曲に台灣の作詞家張方露が「靑靑校樹」と題する台湾国語の歌詞を付けて、現在でも台灣の畢業歌曲(卒業歌)として多くの学校の畢業典禮(卒業式)で歌われています。

 

 歌詞の内容は、恩師への感謝の念を詠ずるところは日本と同じですが、日本の歌が「身を立て 名をあげ やよ励めよ」と、私的な立身出世を歌うのに対し、台灣の歌は第三節で主として男子に対し「 民主共和,自由平等,農工兵商に憑(つ)いて任(にん)とせん,」と詠じて、国家的社会的な貢献を歌っているところに特徴があります。
 これは、終戦直後の国民党政府が台灣に進駐した頃には、大陸中共からの侵略が迫っていたことも影響していますが、公私を比ぶれば公が重しとする台灣人の意識が現れているものと考えられます。

 しかしながら、台灣で38年間続いた戒厳令が1987年7月15日に解除されてからは、社会の多様化に伴い卒業式でこの「靑靑校樹」を歌う学校も徐々に少なくなりつつあるようです。

 

 なお、歌う主体としては、第1節は卒業生、第2節は在校生、第3節は全員の立場に区分されています。

 

 この詞は、日本の「仰げば尊し」の四四六調に倣って、漢字で四字四字六字で1句を為す文語文定型詩に作られており、しかも句末に古来の平水韻と部分的には現代の台灣國語の音韻とで脚韻を踏んでいます。
 今回は、訓読文と和訳とを添付してご紹介します。

 

 

 靑靑校樹 
 靑靑たる校樹

 青々とした校庭の樹

 

1節(卒業生演唱)
靑靑校樹,萋萋庭草,欣霑化雨如膏,
筆硯相親,晨昏歡笑,奈何離別今朝。
世路多岐,人海遼闊,揚帆待發清曉,
誨我諄諄,南針在抱,仰瞻師道山高。

靑靑(せいせい)たる校樹(かうじゅ),
萋萋(せいせい)たる庭草(ていさう),
欣霑(きんてん) 雨と化(くゎ)して 膏(あぶら)の如し,
筆硯(ひっけん) 相(あ)ひ親しみ,
晨昏(しんこん) 歡笑(くゎんせう)す,
今朝(こんてう) 離別するを 奈何(いか)んせん。
世路(せいろ)  多岐(たき)にして,
人海(じんかい) 遼闊(れうくゎつ)たり,
帆を揚げ 清曉(せいげう)を待ちて發(た)たん,
我を誨(をし)ふること 諄諄(じゅんじゅん)たれば,
南針(なんしん) 抱(いだ)くこと在り,
仰(あふ)ぎ瞻(み)る 師道  山の高きを。

青々とした校庭の樹
ふさふさとした校庭の草
湿気が恵みの雨となるのを喜ぶ
筆と硯のように親しみ 
朝晩喜びと笑いを共にした 
今朝の別れを一体どうすれば良いのだろうか?
人生に分かれ道は多く
人の世は 海のように果てしなく広い
帆を上げて清新な朝の船出を待とう
私に丁寧に繰り返し教え諭して頂き
人生の指針となったご指導を心に抱いている
仰ぎ見れば我が師の教えの道は山のように高い

 

2節(在校生演唱)
靑靑校樹,灼灼庭花,記起嚢螢窗下,
琢磨幾載,羨君玉就,而今光彩煥發。
鵬程萬里,才高志大,佇看負起中華,
聽唱離歌,難捨舊雨,何年重遇天涯。

靑靑たる校樹,
灼灼(しゃくしゃく)たる庭花(ていか),
記(おも)ひ起こすは 嚢(ふくろ)の螢ほたる 窗(まど)の下(もと),
琢磨(たく ま) せし 幾載(いくとせ),
君の 玉就(ぎょくしゅう)を羨(うら)やむ,
而今 (じ こん) 光彩(くゎうさい) 煥發(くゎんぱつ)す。
鵬程(ほうてい) 萬里(ばん り) ,
才(さい) 高くし 志(こころざし) 大(おほ)いにして,
佇(たたず)み看る 中華を負起(ふき)するを,
離歌(りか)を 聽き唱(うた)ふる,
捨て難(がた)き舊雨(きう う),
何(いづ)れの年(とし)にか 重(かさ)ねて天涯(てんがい)に遇(あ)はん。

青々とした校庭の樹
炎のように咲き誇る校庭の花
思い起こす 袋に入れたホタルを 窓のほとりに置いて灯りにしたことを
学業に励んだこの幾年月
貴方が玉のように磨き上げられるのを羨んだ
そして今貴方は輝かしい光彩を現した
大鵬が萬里を翔るように君の行く道は果てしなく遠い
才を高くし志を大きく持って
祖国中華を背負い立つ姿を佇んで見ていよう
別れの歌を聴きそして歌っている
捨て難い旧友と
一体何年先に遥か遠くの地でまた会うことが出来るのだろうか

 

3節(全體合唱)
靑靑校樹,烈烈朝陽,宗邦桑梓重光,
海陸天空,到處開放,男兒志在四方。
民主共和,自由平等,任憑農工兵商,
去去建樹,前行後繼,提攜同上康莊。

靑靑たる校樹,
烈烈(れつれつ)たる朝陽(ちょうよう),
宗邦(そうほう) 桑梓(さう し) を 重(かさ)ねて光(かが)やかす,
海 陸 天空,
到る處(ところ) 開き放つ,
男兒 志は 四方に在(あ)り。
民主 共和,
自由 平等,
農工兵商に憑(つ)いて任(まか)せん,
去(ゆ)き去(ゆ)きて 樹(じゅ)を建(た)て,
前へ 行(ゆ)く 後(うしろ)を 繼(つ)ぎて,
提攜(ていけい)し 同(とも)に 康莊(かうさう)を上(のぼ)らん。

青々とした校庭の樹
燦々と降る朝日の光
祖国と故郷は重ねて輝いている

海陸天空
到る所が開き放たれており
男子の志は遍く四方にある
民主共和
自由平等の理念の下
農業・工業・兵役・商業それぞれの任務を果たそう
大樹のような目標を建てて任務に邁進し
先人の後を継いで
助け合って共に天下の大道を進んでゆこう

 

 

 


青青校樹

 

 (次回へ続く)

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 【映画『二十四の瞳』〔1954年(昭和29年)松竹〕記念写真撮影の一場面】

 後列左から:田辺由実子(加部小ツル)、上原博子(片桐コトエ)、石井裕子(“マちゃん”/香川マスノ)、高峰秀子(“小石先生”/”泣きみそ先生”/大石先生/大石久子) 神原いく子(“フジちゃん”/木下富士子)、草野節子(“マッちゃん”/川本松江)、加瀬かをる(山石早苗)、小池泰代(“ミーさん”/西口ミサ子)

 前列左から:宮川真(“キッチン”/徳田吉次)、佐藤国男(“ニクタ”/相沢仁太)、渡辺五雄(竹下竹一)、郷古秀樹(“ソンキ”/岡田磯吉)、寺下雄朗(“タンコ”/森岡正)

 

 

 『仰げば尊し』(あおげばとうとし/あふげばたふとし)は、1884年(明治17年)3月29日に文部省音楽取調掛編纂で発行された『小学唱歌集第3編』に収録されて発表された日本の唱歌です。
 この唱歌は、卒業生が教師に感謝し学校生活を振り返る内容の歌で、特に明治から昭和にかけては学校の卒業式で広く歌われ親しまれてきました。
 曲調は8分の6拍子で、ニ長調または変ホ長調など編曲されたものが何種類か存在します。

 

 卒業歌としてはこの歌こそが古今の絶唱と言えるものであり、1954年に公開された映画『二十四の瞳』(にじゅうしのひとみ、主演:高峰秀子、松竹)では、主題歌としてオープニング・エンディング並びに劇中で子供たちにより合唱されています。

 

 作詞者・作曲者については、文部省唱歌の通例として公表されてはいませんが、近年の研究により、1871年に米国で出版された楽譜に収録されている「Song for the Close of School(学校卒業の歌)」が原曲であることが判明しています。
 原曲では、作曲者を「H. N. D.」(詳細不明)、作詞者を「T. H. ブロスナン」(1838~1886,ニューヨーク)と記載されています。

 

 この曲を文部省音楽取調掛の伊沢修二らが取り入れて、日本語の歌詞は、大槻文彦・里見義・加部厳夫の合議によって作られたと言われています。

 

 歌詞は、四四六調の定型詩ですが、訳詩とは思えぬ程、曲に日本語のアクセントをよく合わせており、式典に相応しい見事なハーモニーを醸し出しています。

 

 2007年(平成19年)には「日本の歌百選」の1曲にも選ばれている名曲ですが、文語調の歌詞が難しいとか、立身出世を詠ずることが時代に合わないとか、恩に感ずるほどの教師がいないとかの理由で、現在、日本の小・中学校では余り歌われていませんが、台灣の学校では定番の卒業歌となっています。

 

 この程度の簡単な文語文なら小学生の時から親しんでおくべきであり、立身出世する者もいなければ社会は成り立たないのであり、教師は須らく生徒から尊敬されるように個人の充実を図るべきであると考えるのですが、この一事からして真正的日本精神が失われているように見受けられるのは残念なことです。

 

 仰げば尊し
 仰望師尊

 

1節
仰げば  尊し   我が師の恩  あふげば たふとし わがしのおん
教の   庭にも  はや幾年   をしへの にはにも はやいくとせ
思えば  いと疾し この年月   おもへば いととし このとしつき
今こそ  別れめ  いざさらば  いまこそ わかれめ いざさら~ば
一仰望 師尊 即感 吾師之恩
在 校園 亦 早已 數載
一回想起來 相當 快速 此之 歲月
就在當今 要離別 珍重再見

 

2節
互に   睦し   日ごろの恩  たがひに むつみし ひごろのおん
別るる  後にも  やよ忘るな  わかるる のちにも やよわするな
身を立て 名をあげ やよ励めよ  みをたて なをあげ やよはげめよ
今こそ  別れめ  いざさらば  いまこそ わかれめ いざさら~ば
彼此 和睦相處且 平日之 恩情
即便 別後 亦 切莫忘記
立身 揚名 至吩 砥礪
就在當今 要離別 珍重再見

 

3節
朝夕   馴れにし 学びの窓   あさゆふ なれにし まなびのまど
蛍の   灯火   積む白雪   ほたるの ともしび つむしらゆき
忘るる  間ぞなき ゆく年月   わするる まぞなき ゆくとしつき
今こそ  別れめ  いざさらば  いまこそ わかれめ いざさら~ば
朝夕 塾習了的 校舎之窗
螢火蟲之微光 堆積之白雪(螢雪之功)
一刻也不會忘記 流逝 歳月
就在當今 要離別 珍重再見

 

 

 

 

 (次回へ続く)

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「忘れじの瞳」は、日本の俳優であり歌手でもあった石原裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日 - 1987年(昭和62年)7月17日)が1963年にEP盤(形状・回転数はシングル盤と同じ、針溝間隔が狭いので収録時間は長いが音量・音質共にやや劣る。)で発表したシングル曲です。
 この曲は、歌詞の中に取り入れている北京語の詞が解りにくかったせいか、裕次郎の曲にしては殆ど売れませんでしたが、その後1974年10月に発売したLP10枚組のアルバム『石原裕次郎の世界』にも収録されています。

 

 この楽曲は、元々1961年に公開された香港映画「不了情」(英文:Love Without End)の中の同名の主題歌が原曲です。

 

 原曲の「不了情」は、 作曲は香港の作曲家莫然 (即王福齡、1925年-1989年)、作詞は同じく香港の作詞家陶秦(1915年-1969年5月16日)で、演唱は香港で活躍した廣州出身の女歌手顧媚(英文名:Carrie Koo Mei;1929年-)が担当して、映画と共に大ヒットとなったものです。

 

 この映画「不了情」公開の2年後に、この曲に日本の作詞家大高 ひさを(おおたか ひさを、1916年(大正5年)3月11日 - 1990年(平成2年)9月2日)が歌詞を付けて「忘れじの瞳」は完成しました。
 歌詞の中には原曲の歌詞を引用している部分もあり、心ならずも別れてしまった恋人を想うという詞想は似通っていますが、原曲が女の立場で詠じているのに対し、裕次郎版は男の立場に変えています。

 

 今回の動画は、石原裕次郎の「忘れじの瞳」と顧媚原唱の「不了情」とを併せてご紹介します。
 なお、詞中に見える「美蘭」(みらん、メイラン)とは別れた恋人の名ですが、あくまでも歌詞の中での設定であり、実在の人物とは関係ありません。

 

 

忘れじの瞳
不能忘記的瞳孔

                      大高ひさを 作詞
                      久慈ひろし 採譜編曲
                      石原裕次郎 演唱
忘不了 忘不了   
花の前髪 夢の唇
海の色より 悲しみ深い 瞳よ

忘不了 忘不了 
象花一樣的前發 象夢一樣的嘴唇
比起海的顏色 悲傷深的 瞳孔

忘不了! 忘不了

忘不了你的錯 忘不了你的好

    テツウオ                  テハアウ  

忘不了雨中的散步 

           イーツオンテサンプウ

也忘不了那風裏的擁抱

              ナホンリイテヨンパアウ

忘れられない! 忘れられない

忘れられないあなたの過ち 忘れられないあなたの優しさ

忘れられない雨の中の散歩

また忘れられないあの風の中での抱擁

救いきれぬ 身の上だから
泪こらえ 別れたけれど
雨の桟橋で 手をふった 美蘭 美蘭
今も忘られぬ いとしの 美蘭 美蘭

因為是不救斷的 境遇所以
眼淚忍耐 分別了,不過
在雨的棧橋 搖手的  美蘭 美蘭
也不被忘記現在的 我想的  美蘭 美蘭

 

(間奏)

 

忘不了 忘不了   
男ごころに 消して消えない
恋の嘆きを 残して遠い 美蘭

忘不了 忘不了
在男人的心中消去也不消失
剩下戀愛的悲嘆 前往遠方的 美蘭

 

(演奏時間 三分五九秒)

 

 

 石原裕次郎の「忘れじの瞳」は、こちら ▼

忘れじの瞳 石原裕次郎

 

 

 顧媚原唱の「不了情」はこちら ▼

顧媚 - 不了情 45RPM 1962

 

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